映画や小説では、歳を重ねたり人生の大きな壁に直面した人が「仏門に入る」と語る場面をよく目にする。 世俗を離れ、仏の弟子として生きるという意味だが、必ずしも出家して僧侶になったり、寺で厳しい修業を積んだりすることだけを指すわけではない。 在家のまま、いわば「個人的に」仏教を学び、仏道を歩んでいく姿もまた仏門に入る一つの形である。
私はこの三番目の ―― 在家のまま仏道を歩むというスタイルに興味を惹かれる。 現実的であり、誰でもその気になれば不可能ではなさそうだからだ。 家に居ながら仏道を実践するとは、日常の行為の隅々に仏教の教えを意識し、それを実践していくことである。 読経・写経・念仏を行い、仏教の五戒を守って生活することが、その基本になるのだろう。
五戒とは、「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」を指す。 分かりやすく言えば、「殺すな・盗むな・性欲に溺れるな・嘘をつくな・酒に溺れるな」ということになる。 かつての若く元気に溢れていた私であれば、一部に黄色信号が灯っていたかもしれない。 今では五戒を守ることはできても、読経・写経・念仏を日々励行するとなると、私には少しハードルが高い。 それが残念である。
それでも、仏教の教えには深く頷けるものが多い。 この教えを自分のものとして自然に理解し、世の中の見え方が変わることを「悟りを開く」と言うのだが、それは自分が「哲学」をすることと深く関係している。
私にとって「哲学をする」とは、自分自身の過去と現在を正直に見つめ、なぜそうなったのかを深く考え、その理由を見つけ出すことだと思っている。 それが分かってこそ、自分に残された余生をどのように締めくくるべきかが見えてくる。
哲学とは、自分に問い続けることであり、過去を振り返り、自分は何であったのかを探り、真理を求め続けることである。 それに対して仏門に入るとは、あるべき姿を信じ、それを実践することだ。 まずは哲学をすることが、その入り口になる。
人間はある歳に達したら、それなりに自分の人生を哲学しなければならない。 やるだけのことをやって到達した現在の自分を客観的に評価し、その上で余生を送るという、完成された生き方がそこにある。 誰も理想的で完璧な人生など歩めるものではない。 古希を越え、百年に向う余白の時間を歩みつつあるとき、人はその人なりに「哲学」しなければならない。 それこそが人間としての生きざまでなのだと感じる。
日本人は宗教に寛容である。 もともと隣人を大切にし、他者に寛容であったところに、神仏習合の歴史が重なった。 神前の結婚式で生涯を始め、仏前の葬式で生涯を終える。 こうした在り方は、海外の人々には到底理解も受け入れも難しいだろう。
日本人として、穏やかに生き、神の前で姿勢を正し、仏の前で心を浄化できることは、とても幸せなことだ。 日本に生まれて本当に良かったと思う。
仕事から解放され、人生の余白だからとひたすら遊びに興じる生き方もある。 しかし、遊びを捨て、自分の人生を振り返り、心を浄化し、小さくてもいいから何か人のためになることに尽くしたいと思う人がいたら、その姿の美しさは比べものにならない。 私は、そうやって余生を過ごしていきたい。