日本では神社も寺も生活になじみが深い。
早朝の散歩コースは全部で八つ決めてあるが、どのコースを歩いてもどこかの神社か寺を通るように設定してある。
自分の気持ちとしては、それが神社であろうと、寺であろうとまったく差異はなく、いずれも自分の心と対話する気持で参拝している。
毎回参拝先が代わるので、手を合わせる前に「ここは神様が仏様か」必ず確認する癖がついている。
所作で一番大きな違いは、手を「パン、パン」と二回叩くかどうかである。 これをお寺のご本尊様の前でやってしまい、直後に気がづくと、焦ってしまう。
そのくらい、神様も仏様も身近で、ある意味では差異はなく、ただ宗教が異なるだけだと感じている。
しかし、あるときふと大きな違いに気がついた。
「神の怒りに触れる」「これは山の神様のたたりだ!」といった表現はよく聞くが、仏様の怒りやたたりという言い方は聞いたことがない。
これは非常に明確で大きな違いであり、とても興味深いと思った。
寺の本堂の奥にはご本尊様の像が鎮座している。
近くの川の横にそそり立つ岸壁を繰り抜いた小さな祠があり、参拝できるようになっている。
場所柄、土中の水がしみ出し、辺りは苔むしている。
そんな小さな祠にも、覗きこむと青銅色に腐食した、瘦せこけた小さなおもちゃのような仏像が鎮座している。
参る時は、毎回その仏像の錆びて潰れかけた小さな顔を食い入るように見つめながら、お礼の言葉を告げる。
仏像の姿には、煩悩から解き放された無限の穏やかさを感じる。
一方神社には拝殿の奥に本殿があり、神様が宿るとされる「依り代」として鏡や剣や玉などが御神体として祀られているが、「神像」という像はない。
神様は姿形を持たない存在なのだ。
参る時は、毎回自分の心の内側を感じながらお礼の言葉を告げる。
神様の姿は見えない。
ちらりと覗く依り代しか見えない姿に、神の万能の力を感じる。
確かにそこには、はかりしれない怖さもある。
神仏習合によって、神道と仏教はお互いに溶け合い、穏やかな世界を作っていると、これまでぼんやりと考えてきた。
しかし、神様は決していつも穏やかとは限らない。
神は怒り、たたる。
仏は怒ったりたたったりしない。
これはとても大きな違いだ。
姿がないだけに怒りは余計に迫力がある。
どこまで迫ってくるか目に見えないからだ。
神様は感情を持つ存在として考えられているのだ。
よくよく考えて見ると、仏教では人間が苦しむ根源である「煩悩」との闘いが語られる。
煩悩は108あると言われ、だから除夜の鐘は108回突くという話は誰でも知っている。
その実態は、人間の心の迷いであり、欲・怒り・無知などがその根本にあると言われる。
そういえば、仏教には修行が付き物だが、神道ではあまり聞かない。
仏教では、そうした煩悩が湧き上がらなくなる「心の状態」を目指して修業を行う。
だから怒りの材料が心の中になくなる。
その状態を悟りを開いたと言うのだ。
仏は人々を怒りの存在しない世界に導く。
神は、自然の力を人格化して生まれた。
山の神、海の神 ―― 。
だから自然と同じように、時に荒れ、時に穏やかになるという感情の波を持っている。
その怒りを鎮めるために、さまざまな儀式がある。
そう思ってみると、思い当たる節いくつでもある。
家を建てるとき、土地の神の怒りを鎮め工事の安全を祈る「地鎮祭」。
干ばつを招いた神の怒りを鎮める「雨乞い」。
塩、酒、食物などを捧げ神の荒魂(あらみたま)を鎮める「供物」。
当たり前のようにやってきた「秋祭り」は、台風や作物の収穫など、神の荒魂を鎮め感謝をするためのものだ。
日本人なら誰もが経験してきた日常に、いつも神の怒りを鎮める儀式がいくつもあったのだ。
世の中の出来事や、人との関わり合いの中で不愉快に思ったり、ひどい場合は怒ったりする自分を振り返ると、悟りには程遠く、神にも仏にもなれない未熟な人間だと、この歳になって恥ずかしく思ってしまう。