ヒエラルキーの呪縛を超え、矜持を貫く

小説でも映画でもテレビのドキュメンタリー番組でも、描かれる「人生の優等生コース」は、一流企業に就職し、人より早く出世して、課長になり、部長になり、取締役になるというサクセス・ストーリーである。

 

出世の終着点は、常務、専務、そしてオーナー企業でない限りは副社長、社長となることだ。

つまり、先人が作り上げた会社という「すべての社員と、回り続ける仕事という組織体」をそのまま自分のものにし、支配下に置き、ヒエラルキーの最頂点に立つということになる。

 

だが、これが本当に人生で最大の「成功」なのだろうか。

私は「良く頑張った」とは思うが、「人間として誇れる姿」だとはどうしても思えない。

そこにあるのは、人間が他者を凌駕したいという、征服欲に近いヒエラルキーへの渇望と執着の結果ではないかと感じる。


すべての人がそうではないが、出世を争う世界には、自らの地位に安住し、酔いしれ、優越感や達成感を味わっている人も多い。

 

序列の中にいれば、自分の位置が保証される。

一人で道を切り開いて生きるより、圧倒的に安心感がある。

そしてその地位が、社会的に自分の価値を証明する承認を与えてくれる。

 

人間社会の中にしっかりと包まれる構造が、人を孤独から解放してくれる甘美さを生み出すのだ。

 

社会に放りだされ、誰からも何処からも評価されないと感じた人間が、孤独感を強め、精神的に病んだり犯罪に走ったりする例をニュースで良く見る。

人間は社会的動物であり、認められ、包まれて生きることに最も心地よさを感じる。

そして、社会的の中で役割が明確化されている場所に、なによりも安心感を覚える。

 

その社会で役割を果たしてさえいれば、摩擦を避けて存在できる。

言い換えれば、そこには「人間の弱さ」を包み込む構造があるのだ。


しかし、その世界では、上司にへつらわないまでも、軍隊のように従うことが要求される。

昔と比べ、上下関係が緩い先進企業もあるようだが、本質は変わらない。

誰もが「偉くなりたい」と思い、感じる歪んだ社会である。 

 

民主主義と言っても、封建時代からのヒエラルキーが姿を変えて色濃く残っているのが現代社会だ。

 

日本の武家社会には、

天皇・将軍・大名・侍・百姓・町人といった構造があった。

 

西欧では、

国王・領主・騎士・農民。

聖職者ですら、教皇・大司教・司教・司祭という序列があった。

 

現代社会のヒエラルキーは、封建時代の焼き直しに過ぎない。

社長は天皇であり、役員は将軍、部長は大名、一般社員は侍に当たる。

 

そして出世とは、「組織という領地を手に入れる闘い」なのだ。

企業は「能力主義」と装っているが、実際は封建主義的な忠誠構造が支配している。

・上司への忠誠。

・空気を読む文化。

・長い物に巻かれる。

・偉くなりたいと言う欲望

これらはすべて、封建社会の名残りである。


人生を振り返って、私が憧れる人たちは、学者、研究者、技術者、そして芸術家だ。

 

ヒエラルキーとは無縁の、価値ある創造力の世界に生きる人たち。

そこでは、成果は階級や序列にではなく、「作品」に宿る。

他者を支配する構造はない。

 

支配より創造。

序列より探究。

出世より作品。

権力より思想。

 

出世は他人との比較だ。

しかし創造は、自分の中の必然に従い、その人にしか生み出せない絶対的価値を創り出す行為である。

 

創造の世界では、誰かを押しのける必要も、誰かに勝つ必要もない。

ただ、自分の世界を深めればいい。

他人との相対的な比較ではなく、自分が得ているものの絶対的価値が問われる世界だ。

 

しかし、創造の世界は自由であると同時に孤独でもある。

自分の価値を弁護してくれるものはなく、組織が守ってくれるわけでもない。

誰にも評価されない時間が長く続く。

そこで求められるのは、自己との闘いであり、その人の真価が問われる過程である。

 

創造とは、他者を超えるためではなく、自分の価値観と内なる必然に従い、それを実現するための必死の行為なのだ。

唯一無二の、誰にも真似できない、その人が生まれてきたからこそ描かれる世界である。


価値観、人生観、死生観などは人それぞれ異なる。

自分自身の確固たる思いを持つ人はよいが、特に強い思いがないまま、ただ「長い物に巻かれて」生きている人があまりにも多いよう感じる。

 

ここで大切なことは、ヒエラルキーのある組織で仕事をしていることが、すべてを決定づけてしまうわけではないということだ。

 

私は、日本でヒエラルキーが支配する最も代表的な組織である銀行に長年勤めた。

大したことは成し遂げられなかったが、その中で私は自分の価値観と生き方を貫いた。

その中での忠誠と出世は、私の関心事ではなかった。

その職場で如何に自己実現をし得るかが最大の関心事であり、それに自分のすべてをかけた日々だった。

 

半年ほど前、息子が海外から一時帰国した際、「会社創立以来最年少で、部長に昇進した」と、照れながらも誇らしげに語ったことがあった。

 

多くの親なら「おお、それはよくやった!」と喜び、褒めるだろう。

しかし、私は反応に躊躇した。 なぜか嬉しいとは思えなかった。

むしろ、息子の世界観・人生観の小ささを感じ、無念を覚えた。

 

息子は小さい時から私によく叱られ、何をやっても一人前にできなかった。 だが、素直な性格の彼は、いつも私の背中を真剣に追いかけてきた。

それは就職してからも変わらなかった。

 

だからこそ、息子のその言葉は「自慢」ではなく、私への感謝と、「ここまで頑張った」という報告であり、「認めてほしい」という気持ちが一番だったことを私は知っている。

 

私は彼の一途で「けなげ」な努力を知っている。

バカが付くくらい正直に、仕事で評価されるために打ち込んで来たのを知っている。

週末の筋トレ以外は何の遊びもしない。

一時帰国した際も、私と飲むとき以外はひたすらノートパソコンに向かい、朝から夜中まで仕事に夢中になっている姿も見ている。

 

しかし、アジアの珍しい国に七年間も勤務するという貴重な機会を得たにもかかわらず、その国の言葉ひとつ学ぼうともせず、ひたすら会社人間として全うしてきたのも知っている。

 

だからこそ、私は思う。

「偉さ」は肩書きが与えるものだが、「大きさ」は生き方が育てるもの。

 

偉くなるより、大きくなってほしい。

私が息子に願うのは、ただその一点である。

 

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