憎しみは永遠に続くものなのだろうか。
人は必ず死を迎える。 それでもなお、憎しみだけは死を越えて残り続けるのだろうか。
どうしても相いれない相手がいたとして、いつも腹に据えかねていたとして、意見が合わないばかりか事あれば対立し、機会があればお互いに相手を負かしてやろうと思っていたとして ―― そんな相手が先に世を去ったとする。
そのとき、おそらく身体から力が抜けてしまうだろう。
もう意見を闘わせることもできず、そもそもその相手が存在しない。
自分の考えに反対する人間は、もうどこにもいない。
結局のところ、人に対する感情とは相手の存在に依存している。
相手がいなくなってしまえば、それまで抱いていた感情が、途端に意味を失う。
「そうなると分かっていたら、何も闘う必要などなかった」と思う一方で、「生きている間に叩けるだけ叩いておいて良かった」と思う自分もいるかもしれない。
サラリーマン時代、そりが合わず憎たらしいと感じていた上司も、この世を去ってしまった。
そうなると、いまさら憎む気にもなれず、存在しない人を憎むこと自体が虚しく思えてくる。
生きているあいだ宿っていた憎しみは、その死とともに静かに幕を閉じた。 まさに一期一会の一幕だったのだ。
今では、かつて憎しみの対象だったその上司も、私の中では温かく弔ってあげたい存在になっている。
好き放題権力を振り回しているように見える某大国の大統領を見ていると、三つの気持ちが交錯する。
糾弾したい気持ち
健在なうちに、「あなたのやったことは、これだけ恥ずべきことなのだ」と思い知らせてやりたいと言う気持ち。
嘲笑したい気持ち
年齢からして、どうせ先に逝ってしまう人だ。 いなくなってしまえば過去の人である。 「それまでの命さ」と嘲笑したくなる気持ち。
憤懣が残る気持ち
そうは言っても、やりたい放題のまま反省も後悔もせずに逝かれてしまったら、たとえ過去の人になっても憤懣やるかたないという気持ち。
その三つが、いつも胸の中で入り混じり、渦を巻く。
世の中には、人を憎んで許し切れず、その人を殺めるという罪を犯し、一生を台無しにしてしまう人が後を絶たない。
衝突したり、嫌悪感を抱いたり、許せない気持ちを抱いたりすることも、すべてはそのときの環境・状況・めぐり合わせが生み出すものだ。
それらは、「一生に一度だけ、その瞬間にだけ生まれた一幕」に過ぎない。
一期一会は、
「感情は永続しない」
「だから執着する必要もない」
という静かな智慧を与える。
人間が時に抱く怒り、嫌悪、ねたみ、恨みといった負の感情は、持っていて得することは何ひとつない。
我々は、いつ訪れるかわからない最期の時と常に背中合わせで生きている。
時としてそれは難しいが、そんな負の情念に自分の生き方を汚されないよう、達観して先だけを見て生きた方が得だ。
その姿勢は、仏教や禅が目指す生き方とも深く重なる。
仏教は、怒りは風のように「縁」によって立ち上がり、縁が途切れれば跡形もなく消えると教える。
禅が求めるのは、「怒りが湧いても、怒りに支配されない心」である。
怒りに人生を浪費するのは愚かだと言う考えには、学ぶところが多い。
その教えは、憎しみは一期一会の一幕にすぎないことを、改めて思い出させてくれる。