最近、地元で開催された大相撲地方巡業を観に行く機会を得た。
相撲を観るのは初めてだったので、大いに楽しんできた。
目の前を横切る力士の肌があんなにすべすべして綺麗だとは思わなかったと感動したり、いつもテレビで見ている力士を実際に目の前にして、感動の連続の六時間を過ごした。
目の前に彼らの姿を実際に見て、とてつもない厳しく奥の深い世界に身を置いているのだと実感した。
私の妻は結婚当初から「茶道」をたしなんでおり、先生の免状も持っていて、今でも毎回和服に着替えて毎週のようにお稽古を楽しんでいる。 相撲観戦が影響したかどうかは分からないが、最近、私はその世界の真の奥深い世界に思いを馳せるようになってきた。
日本には、茶道、華道、書道・相撲道・剣道・柔道・弓道・合気道・空手道など、日常に溶け込む「道」が数えきれないほど存在する。
調べて見ると、四十種を超えるというから、その多様さに改めて驚かされる。
「道」と名のつくものは、単なる技術体系ではない。
技を磨くことを通して人としての成熟に至ろうとする精神の旅路であり、勝敗や優劣を目的とするものではない。
幼い頃、私が憧れた横綱たちは、強さだけではなく、人柄そのものが尊敬を集めていた。
子どもたちが飛んでいって思わず抱きつきたくなるような、温かく包容力のある理想の人間像がそこにあった。
しかしその像を揺るがしたのが、一部の外国人力士の姿だった。
勝敗への執着が前面に出る姿は、相撲道が重んじてきた精神性とは異なる文化背景を映し出しているように見えた。
日本人なら誰でも理解している、「道」の価値を、異文化の人々が深く理解するのは容易ではないのだろう。
茶道では、所作の反復によって静かな美の世界へと近づいていく。
相撲道には、神事としての起源があり、勝敗を超えた心の在り方が求められる。
武道では「礼に始まり礼に終わる」という言葉が象徴するように、心技体の統合が理想とされる。
どの「道」にも共通するのは、自我を離れ、より高い精神性へ至ろうとする修行の構造である。
繰り返される所作、重んじられる礼節、静かに積み重ねられる鍛錬。
そこには、日常の中に息づく精神文化がある。
日本独特の「道」の背景には、神道や仏教、特に禅の修行観がある。
特に千年以上にわたり神と仏を一体化してきた神仏習合の柔軟な宗教観が、「道」の精神性を育ててきたと言える。
興味深いのは、海外にはこのような「道」に相当する概念がほとんど存在しないことだ。
日本で「道」が生まれた理由は説明できても、なぜ海外では生まれなかったのかという問いには、明確な答えが見つからない。
結局のところ、神仏習合によって形成された「修行を日常に組み込む」という発想こそが、日本文化の特異性なのだろう。
近年、日本を訪れる外国人観光客が口をそろえて語るのは、
「日本人の誠実さ優しさ」への驚きである。
その根底には、千年を超えて受け継がれてきた「道」への精神がある。
「道」は、日本文化の最も独自性の高い精神体系であり、
日本人の振る舞いの奥に静かに息づく美意識と倫理観の源泉なのだ。
日本が世界に示しうるものとは、目に見える力ではなく、静かに受け継がれてきた「道」の精神なのだろう。