「大将」と呼ばれる人がいる。 太っ腹で、優しくて、そのうえ矜持を貫いて生きている、格好いい男だ。
部長とか支店長とか専務とか社長とか、職業上の役職でふんぞり返っている人間とは違う。 まったく別の価値基準で人から尊敬される、真の「人の上に立つ人」である。
「大将」に共通しているのは、慕って寄ってくる人たちへの愛だ。
自分が一番になりたいとか、偉くなって上に立ちたいという欲を持つ人ではない。 そうしたことに価値や生きがいを求めるのではなく、世の中で何かを成して役に立ちたいというひたむきな気持ちがあり、その思いの中で出会った人たちを大切にし、愛を注ぐ広い心の持ち主だ。
私が思い出に残る「大将」は、中学一年のときの担任の先生である。
思慮深いお人柄で、母も深く信頼していた。 数学を教えていたその先生は山登りが好きで、ワンダーフォーゲル部を作り、私を始め数人の同級生を引率して、土日に近くの山を歩いてくれた。 山の歩き方を始め、大切なことを基本から丁寧に教えてくれた。
あるとき、山小屋で一泊する登山に行った。 初めての山小屋にはしゃいで「枕投げ」を始めた私たちに、先生は「こら!寝ろ!」と一喝した。 山小屋には早朝の暗いうちに出発する人も多い。 そこは遊び場ではなく、睡眠を取って命をつなぐ場なのだ。 先生は、ほかにも大切な心構えをいくつも教えてくれた。
東北アルプスと呼ばれる飯豊三山を縦走したとき、私は不注意で木の根に足を取られて転倒し、足先をねん挫してまともに歩けなくなった。 一泊の予定の山行だったので、各自重いザックを背負っていた。 先生は迷わず、私の大きなザックを自分のザックに縛り付け、私には付近の木の枝を折って作った杖を与えてくれた。
先生は落ち着いて縦走コースを外れ、とにかく最寄りの山里へ下山する判断をした。 私は杖に体重を預けるばかりで、右手のひらは皮が破れて血だらけになっていた。 夕刻、あたりに暗闇が迫るころ、やっと山里まで下りてきた。
そこには農地が広がり、古い農家があった。 先生はためらわずその家に向かい、頭を下げて生徒たちを一晩泊めさせて欲しいと頼んだ。 山奥のその親切な農家の方は私たち全員に食事と寝間を用意してくれた。 朝、先生は「これは心ばかりのお礼です」と言ってお金を渡していた。 私たちは無事に帰途に就いた。
中学校卒業後も、先生を囲んでワンダーフォーゲル部のOB登山は続いた。 先生は私をとても高く買ってくれていて、いつも親身に相談に乗ってくれた。 お酒が好きで、登山の最後の下山で安全地帯まで下りて来ると、ウイスキーの小瓶をラッパ飲みしながら笑って小走りしていた姿を思い出す。
私が大学受験に失敗し浪人生活を始めると、私の大学進学を固く信じていた先生は私のことを大変心配してくれた。
私の家は中学校のすぐ隣だったので、卒業後もたびたび職員室に先生を訪ねた。 中学生のとき学年で一番の成績だった私が、高校時代に道を踏み外し堕落していく姿に、先生は胸を痛めていた。 なんとか私を「更生」させようと真剣に考えてくれていた。
私は、浪人しても真面目に勉強せず、しまいには原付バイクを買ってくれと親にせがむようになった。 中古だったので数万円のことだったと思うが、親は当然応じなかった。
ある日、その話を先生に漏らした。 先生は「よし、それでお前が勉強を頑張れると言うのなら、ボクが買ってあげよう!」と言った。 私は驚いた。 先生は私に期待し、信じてくれたのだ。
中学校の教師で、特別の資産家でもない先生が、自分の家族のためならいざ知らず、何年も前に卒業した生徒のために差し出そうとした温かい愛だった。 結局、その話を知った両親が、慌ててお金を出して買ってくれることになった。
その偉大な先生は、それから数年後、胃がんで若くして亡くなられた。 私は心に風穴があいたようだった。
教育者である先生を「大将」と呼ぶのは相応しくないのかもしれない。 だが、あの先生から「先生」という肩書を取り去ったら、残る姿はまさに大将そのものだったと思う。
義務や責務や損得勘定ではなく、優しい愛で若者を包み、その人らしい生き方に矜持を貫く。
それが大将だ。
私は人生で大将にはなれなかった。
それだけはぶざまだったと、情けなく思うことがある。