生まれ変わっても、血は変わらない

私に対して「生まれる時代が違っていたら、社会のために何かを成し遂げる偉人になっていたかもしれない」と言った友人がいる。

 

その好意は素直にありがたい。 だが、その言葉は私の胸には落ちなかった。 それどころか、その言葉はどこか決定的にロジックを外している、という違和感だけが残った。 私という人間の本質を見つめたとき、そんな可能性は万に一つもあり得ないからだ。

 

この歳になり、自らの内面と真摯に向き合う半年を過ごした。

静寂の中で人生を振り返れば、過去に犯した数多くの過ちが、生々しい輪郭を持って蘇る。

私はそれらを弁解の余地なく理解し、深く反省している。

もし、わずかであってもできる償いがあるならば、残された人生でどのような形でも受け入れるつもりだ。

 

だが、ここで一つの問いが生まれる。

もし今世のすべての過ちと後悔をすべて記憶したまま来世に生まれ変わることができたとしたら、私はまっとうな道を歩めるだろうか。

 

結論を言えば、私はまた同じ過ちを繰り返すだろう。

たとえ、その選択の先々で、身を切るような激しい後悔に襲われるとあらかじめ理解していてもだ。

悲しいかな、私にはそれらを回避する「自信」はない。

 

なぜなら、私が人生の岐路で犯した決定的な過ちの多くは、偶然の産物ではないからだ。 理屈や損得を超えて、私の魂が「そう選択することにしか同意しなかった」結果なのだ。

強い思い入れのない日常の些細な選択であれば、過去の教訓を生かして避けることもできるだろう。

 

しかし、己の生き方を決定づけるような瞬間において、私の手を引いたのは、私という身体に流れているこの「血」にほかならない。

時代がどう変わろうとも、魂が求める歪んだ固有の叫びを変えることはできない。

 

世間には「今度生まれてくるときは……」という言い回しがある。

人生の悔いや未練を、まだ見ぬ来世へと都合よく託すための定型句だ。

多くの人は、生まれ変わりさえすれば、次はもっと賢く、もっと高潔に生きられると信じている。

 

しかし、それは欺瞞だ。

偉人になれなかった者には、なれなかっただけの理由がある。

初めから、それだけの密度を受け止める器ではなかったのだ。

生まれ変わったところで、器の形や容積が変わるわけではない。

歪んだ器には、どんな清らかな水を注いでも、やはり歪んだ形でしか満たされない。

 

私に流れる血は、私のアイデンティティそのものであり、私の限界そのものだ。

どの時代、どの世界に投げ出されようとも、私はこの血の命ずるままにしか動けない。

 

後悔しているということと、それを二度と繰り返さないということ。

その二つは、人間の業において、決して一致することはない。

 

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