日本のオーケストラ界が遺した20世紀の記念碑的大作、矢代秋雄の『交響曲』(1958年)。 演奏会で取り上げられる機会が稀なこの曲を、私は先日、初めて生で聴く機会を得た。
コンサートの後半、メインプログラムに40分に及ぶこの四楽章編成の交響曲だけが据えられているのを見たとき、私は浅はかにも「ひょっとしたら」という程度の地味な興味しか抱いていなかった。
しかし、その油断は開演前から静かに崩れ始める。 ステージ上に配置された、異様なまでに充実した打楽器群。 中でもひときわ巨大な存在感を放つチューブラーベルが、これから始まる音楽の尋常ならざるスケールを予感させていた。
演奏が始まった瞬間、私は息をのんだ。
耳に飛び込んできたのは、冷徹な計算のもと、各パートが数学的に制御されたスコアの構造美だ。 しかし、この作品の真価はその先にあった。 寸分の狂いも許されない超難度のコントロールの底から、聴き手の魂を激しく揺さぶるパッションが、圧倒的な音圧となって爆発するのだ。
特に管打楽器の炸裂は凄まじかった。 執拗に打ち鳴らされる太鼓類、空間を切り裂くチューブラーベル。 さらに、ホルンに支えられた重厚な金管の咆哮や、アルト・フルートが放つ深く低い音色が、作品の持つ不穏でドラマチックな美学をどこまでも引き立てる。
弦楽器の豊潤さを凌駕し、この打楽器と管楽器の強靭な響きこそが、作品の骨格を形作っていた。凶暴なリズムが暴れ回る第2楽章、そして圧倒的なエネルギーで全曲をねじ伏せる第4楽章。
それは、私たちが親しんできた西洋の伝統的な交響曲とは一線を画す、矢代秋雄独自の容赦なき音響世界だった。
コンサートのプログラムには、ただ『交響曲』とだけ記され、普通はあるはずの「何短調」という調性の表記がなかった。 その理由を帰宅後に調べてみて、私は近現代音楽の精緻な仕掛けを知ることになる。
この曲は、古典派やロマン派のような「ハ短調」といった調性の重力圏内にはない。 矢代は、伝統的な機能和声(主音へと解決するルール)を放棄する代わりに、特定の限られた音程の動き(動機)を徹底的に反復・変形させることで、全曲を統一していたのだ。 私が客席で感じたあの息詰まるような緊迫感は、おなじみの「短調」によるものではなく、数理的に組み上げられた音の細胞が、形を変えて何度も襲いかかってくる構造そのものが生み出していたのである。
さらに興味深い事実を知った。
この曲はその卓越した管打楽器の手法ゆえに、後に吹奏楽へと編曲され、かつて全日本吹奏楽コンクールで爆発的なブームを巻き起こした伝説的なレパートリーなのだという。
オーケストラの冷徹なスコアに秘められたあのエネルギーが、形を変えて日本の若者たちをも熱狂させていたのだ。
これほど見事な傑作が日本に存在したこと、そしてその歴史さえ知らずにいた己の視野の狭さを痛感する。
しかし同時に、まだ見ぬ偉大な音楽がこの世界に隠されているという歓喜で、私の胸は今も熱く高揚している。