毎年八月になると、終戦記念日がやってきて、全国各地で戦没者の追悼行事が開催される。韓国では光復節、中国では抗日戦争勝利記念日が掲げられ、歴史的勝利が強調される。
歴史は単なる出来事の集積ではなく、過去から現在へと連続する「流れ」であり、ある一点だけを切り取って評価することは難しい。
しかし、その流れの底に常に「発露」として横たわっているものがある。
それが 帰属意識 だ。
人は自分が属する地域・集団・文化に自然と心を寄せる。
それは「同郷意識」を生み、仲間との一体感を強める。
帰属意識 → 排他性 → ナショナリズム → 戦争 という構造
帰属意識が強まると、次に生まれるのは「自分たちの集団に属さない者」への距離感だ。
それがやがて 排他性 となり、
さらに 内集団バイアス を生む。
この心理構造が国家規模で組織化されると、ナショナリズムが完成する。
現代の人々の文化度はかつてないほど高く、不幸な境遇の人々をいたわるモラルは高い。しかし社会構造は依然、限られた指導者に委ねられており、その指導者が国威発揚の思想教育に精を出せば、何億人もの国民の意識や人間としての発想を原始的レベルに引き戻す事は難しくなく、現にそれが堂々と正義を謳って行われている。
人類史をどこから辿っても、この構造は繰り返されている。
文化度が高まり、弱者へのモラルが向上しても、帰属意識が暴走すれば戦争は容易に再発する。
人類は何千年かけても、この問題を解決できていない。
スポーツに現れる帰属意識の「光」と「影」
この帰属意識の力は、国家だけでなくスポーツにも同じように現れる。
日本の高校野球を観ていると、本当に気持ちが良い。勝っても負けても青春をかけた選手たちの美しい姿は感動を呼ぶ。勝敗を超えて相手をたたえ合う礼儀正しい世界は、世界でも類をみない美しい姿だ。まさに「高校野球道」という名をつけたくなる、技量よりも「心の在り方」を磨く、高校生時代に相応しい鍛錬の場だ。
高校野球連盟と言う組織が指導的立場からモラルをきちんと育て制御していることもあるが、元々「道」というものが深く浸透している日本では、「勝敗だけがすべてではない」という考え方があり、若い高校生のひたむきさが加わって感動的な物語を創り出しているのだ。
それが、世界中の人々が熱狂するサッカーの国際試合では、観衆が興奮のあまり暴徒化して過去に多数の死者と負傷者まで出している。
闘争本能を丸出しにした闘いの痕跡が、そこかしこに顔をのぞかせている。人々は二つのチームに分かれ、一丸となって激しくぶつかり合う。
「集団間対立の激化」が引き起こすスポーツに名を借りた「戦争」だ。
集団競技の国際試合では勝ち負けがすべてとなりやすく、そこにはスポーツに期待される健全さは存在しない。
同じスポーツでありながら、帰属意識が生む結果はまったく異なる。
この事実は、帰属意識そのものの危うさを示している。
帰属意識の変革
今も世界で繰り広げられている悲惨な戦争。何度繰り返しても人類の歴史から消え去ることができないでいる。
「俺たち」「おらが村」「我が祖国」という帰属意識を持っている限り、
人類から戦いが消え去ることはないように思える。
世界を旅してみると、そこでしか出会えないというものが無尽蔵にあることに気づく。日本もそのひとつだ。
ならば、
その「ひとつ」でよいではないか。
自分が「なにじん」であるか、何故こだわる必要があるのだろうか。
なぜ「祖国」に対して「誇り」を持たねばならないのだろうか。
「世界にある国の中で一番よく知っているのが日本」だけではいけないのだろうか。
小さな一つの国にこだわるより、「地球と言うひとつの国」の国民だと考えたらどうだろうか。
持たねばならない帰属意識があるとしたら「地球人」としての一体となった慈しみと思いやりではないだろうか。世界中の人が「同じ釜の飯を食っている」家族だという意識を持ったらどれだけ世の中が変わることだろうか。
少なくとも、宇宙人の存在が確認されていない間は ―― 。