若い作家の卵が部屋にこもり、朝から晩までペンを走らせ、書斎の床には書き損じた丸められた原稿が散らばっている。そんな光景がよく映画に出てくるくらい、作家が世に認められ成功への道を登り続けていくのは、容易なことではない。
このnoteにも、数多くの方がデビューを目指し奮闘している様子が見られ、本当に頭が下がる思いがする。その才能や努力、根気がいつか花を咲かす日が来てほしいと応援せずにはいられない。
文筆に限らず、芸術の世界に活路を見出そうとしている人は、狭き門を目指して死闘の日々を送っている。
不特定多数の「他人からの評価」が成否を決める世界というのは、本当に辛く大変だと思う。
私は常に客観的な成果がそのまま評価になる世界で生きてきたので、闘う世界に「人」という要素はほとんど存在しなかった。
だから、一年前にエッセイを書き始めたときも、頭にあったのは「自分という読者」だけで、noteというネット空間を選んだのは、大きな博物館の片隅に私のコーナーを作って記録を残したかったからである。
夢中になって書き綴り、ふと立ち止まって自分の足元を見ると、そんな私が、自分が意識する・しないに関わらず、不特定多数の人の主観的な視点で評価される世界に足を踏み入れてしまったことに気づいた。人生で初めてのことである。
私の生き方は、常に「人の評価にまったく耳を貸さず、ひたすら自分の道を爆走する」といったスタイルであった。
人の評価に耳を貸さないということは、人の忠告にも耳を貸さないということで、良く言えば「マイ・ウェイ」悪く言えば「唯我独尊」の世界にいた。
だから、これは思いもよらずとってしまった「不覚」であった。
もはや手遅れだ。否が応でも「スキ数」だの「フォロー数」が目に入る。私が一番見たくないものだ。noteでは耳は塞げても、目は覆えない。
私は、間違っても文筆家として注目されたり好かれたりすることを目指しているわけではない。
むしろ、意識するとしたら「人から反感を買わないように」気をつけているということくらいだ。
ならばなぜそんな配慮をしてまで、あえて人の目に触れる「博物館」に自分を残そうとしたのだろうか。
この問いに対しては、ひとつの明解な答えを持っている。
自分という人間を「人目に晒したい」のだ。
晒すという行為は、私にとって「一方通行」の行為で、無視されたり石を投げつけられたり、何をされても構わない、という気持ちの表れである。
前向きに受け止められても、白い目で見られても、一笑に付されても、それが自分の人生の結果だと思う覚悟がある。
しかし、「スキ」や「フォロー」の通知がシステムから自動送信されてくるので、否が応でもその動向を知ることになる。
人気のある方たちの記事に比べたら見るべくもないわずかな数ではあるが、スキを下さる方がいる。
こんな私を少なくとも否定しないで見てくれている人がいるのだとわかる。
フォロー者数は頻繁に増減を繰り返している。
十人くらい増えたり減ったりを延々と繰り返し、結局だいたい同じ数に収まっている。
つまり、「お、この人の作品面白そうだな」とフォローを始めたが、「なぁあんだ、こんなつまんないこと書いているんだ」と知り、去って行く。そんなことが起きているのだろう。
もとより、「マイ・ウェイ」なので、どうするわけでもない。
博物館の片隅で起きているひとつの出来事に過ぎない。
私が一番恐れているのは「コメントがつきました」という通知だ。
スキやフォローは無視できても、コメントに対してはそうはいかない。
頂いたコメントが、スキの「補完」なのか、「キライ」や「批判」なのか開くまで分からない。
なんと言われようと陳列している自分の姿を変えるわけにいかず、ありのままでいるしかないのだが、頂いたコメントに対しては誠意を持ってお応えしたい。そのギャップが私を少し緊張させる。
まぁ、そんな客観的評価を得ながら、それでも自分を晒し続けようとしているのは、「自分は自分でしかない」という静かな確信を持ち、それを強引に残そうとしているのかもしれない。
もうここからは書き換えることのできる人生の余白は限られている。
出来る限り思いを尽くして生きてきた人生を人目に晒して受ける審判は、それはそれで心地良い。