サッカー・ワールドカップ決勝戦のスタジアムにスペイン国歌が流れた瞬間、四十年前にあの国で暮らした日々の記憶が、鮮烈な色彩を取り戻して胸に押し寄せた。雄大で、共同体の魂を根底から震わせる国歌の旋律は、どの国のものであっても、聴く者の胸の奥に眠っていたその国に触れたときの匂いを静かに呼び覚ます。
日本の「君が代」が世界でも稀なほど静謐で、情緒の奥底に触れる精神装置であるならば、スペインのそれは集団を未来へ突進させる昂揚のエネルギーそのものだ。
国歌とは単なる音楽ではない。国家という抽象的な共同体を一瞬で一体化させ、選手と観客の心を強制的に同じ方向へ向ける。団体戦の狂熱は、この「個が集団へと没入する瞬間」から生まれる。
決勝戦で、スペインは完璧な王者のサッカーを展開した。シュート数で圧倒し、ボール支配率でもピッチを完全に支配した。しかし、退場者を出し、十人になりながらも延長戦の土壇場までゴールを許さなかったアルゼンチンの執念は、勝者に劣らず美しかった。
私はその光景を見ながら、四十年前のスペインの街角で、幼い子どもたちが器用にボールを蹴って遊んでいた光景を思い出していた。あの国では、フットボール(サッカー)は生活の一部であり、文化そのものだ。日常の地続きにあるからこそ、彼らのフットボールには揺るぎない生(せい)の重みがある。
試合後、負けて芝生の上に座り込んだまま動かないアルゼンチンのメッシ選手の姿が、画面の中心に静かに残った。
歓喜と失望が渦巻く中で、彼だけが別の時間を生きているように見えた。
世界最高の選手の一人として二十年以上、期待と重圧を背負い続けてきた男の背中には、誰にも触れられない孤独がある。
味方も敵も、誰も彼を抱きしめには来なかった。
英雄とは、栄光の中心に立ちながら、同時に誰よりも孤独な存在なのだ。
私にはその姿がとても輝いて見えた。
私は特別スポーツが好きなわけではないし、戦術にも詳しくない。
それでも私が心を動かされるのは、個人技の競技だ。
団体戦競技には、いつも「疑似戦争」の影がつきまとう。
団体戦は、個の技術ではなく「集団の力」を競うがゆえに、国家や民族の原始的な感情を巻き込みやすい。
ピッチを包む空気は容易に「疑似戦争」へと変貌する。敵味方、戦略、攻略、壊滅――戦争用語が自然と観客の口をついて出る。ピッチ上でも、選手たちが激しく衝突し合う。
しかし、戦いが終わった瞬間、彼らは互いを抱き合い、称え合っていた。
その姿にはとても心が温まった。
彼らは、自分たちが歩いてきた過酷な苦悩の道を理解し合っているからこそ、最後に「個」として敬意を示すことができる。
もちろん、僅かだが相手チームの選手と小競り合いをしている者もいた。しかし、誰よりも味方の勝利という記号だけに興奮し、他者を排斥し続ける観客の側にこそ、ナショナリズムという制御不能の火種が燻っている。
スポーツが「疑似戦争」へ暴走しないために、そして人間の尊厳を損なう道具へ傾かないために、私たちはこのピッチ上の敬意を凝視しなければならない。
試合後、スペインの友人たちにお祝いのメッセージを送ると、深夜にもかかわらず次々に歓喜の返信が届いた。今、スペインの街角がどれほどこの勝利に酔いしれ、歓声を上げているか、想像に難くない。スポーツが、私のような戦術に疎い人間までを巻き込み、人々の感激の和の中で呼吸させてくれることは、純粋に幸福なことだ。
勝った者も負けた者も、極限の競争のただ中で「人間の尊厳」を守ろうとする態度を失わない限り、スポーツは社会の倫理を支える静かな柱であり続ける。国歌が生む一体感も、競技がもたらす熱狂も、最終的には「人間が人間を尊重する」という冷徹な原点へ収束するべきだ。
その一線を守り抜くことの中にしか、スポーツの未来はない。