変化し続ける私と、固定された「親族体系」の不整合

私の最も苦手な分野は「親族の相互関係の把握」である。

「AさんとBさんは誰の何に相当する?」というような問いは、自分の親戚関係だけではなく、ドラマや映画を観る際にも最大の障害となる。

 

血縁関係を示す相関図は存在するが、頭の中だけでその関係を理解しようとすると、自分の親・兄弟はともかく、日常的に親しくしている従兄妹を超えたあたりから途端に混乱が始まる。特に父方と母方の区別は、よほどじっくり考えるか、紙に描かない限り難しい。

 

この点において、私は昔から妻の足元にも及ばない。わからなくなると彼女に助けを求めるし、ドラマや映画を観るときは必ず「解説者」として同席してもらっている。

 

語学も数ヵ国語を多少なりとも使いこなし、天文学や電子工学などの技術分野にも趣味の範囲ではあるが明るく、音楽にも一定の素養がある。そんな私が、人間として極めて常識的な領域において絶望的な対応力しか持ち合わせていないという事実は、もはや素直に降参するしかない。


この「親族関係の把握が苦手」という特性は、私の認知スタイルや人生経験、家族観が生み出した特異性だと考えるのが自然だ。

 

よくよく考えて見ると、私は昔から「人間関係を固定的に捉えない」という認知スタイルを持っている。

親族関係とは、父・母・叔父・いとこなど、固定されたラベルによって構成される体系である。

 

しかし私は、「自分も他者も、すべての人は変わり続けている」という動的な世界観を持っている。

だから「関係はラベルで固定する」という発想そのものが、私の思考様式と馴染まない。

 

私は、同窓会という名の集まりには一度も参加したことがない。

自分は常に変化してきたので、昔の自分と現在の自分は別バージョンである。

他者から「昔の自分」として扱われることは滑稽だし、自分が他者を「昔の相手」として見ることも滑稽だ。

 

つまり、私は人間関係を「ラベル化されたもの=固定された枠組み」として扱わないし、他者からそのように扱われることも受け入れられない。

 

親族関係の呼称は変化する訳ではなく、そこに自分の世界観をぶつける必要は、もちろんない。ただ私の思考様式とは相性が悪いため、理解しにくいのだ。


実際のところ、私のこの認知スタイルは妻のおかげでしっかり補完されている。もし私が一人暮らしをしていたら、ドラマや映画の世界はともかく、親族間の付き合いに大きな支障をきたしていたと思う。

 

よく知っている親戚の人物が、私から見て何と呼ぶべき存在なのか、相手から見たら私は何に当たるのかが、すぐには分からない。

ましてや、ある親戚からみ見た別の親戚が何に当たるのかと言う問いは、かなりの難問である。考えているうちに脳内で思考回路が暴走しているような感覚すら覚える。

こうしたときは妻に尋ねれば、彼女は笑いながら即答してくれる。

 

そう言えば、政治・経済・技術・語学・音楽といった知識の領域になると、彼女は私の補完なしでは理解できないことが多い。

 

うまくしたものだ。私たちは互いの認知の欠落を埋め合いながら、世界を「二人で」理解している。

 

 

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