私はネット上のVPNという仕組みを利用して、韓国やスペインの国内テレビのライブ放送を一日中流している。とはいえ、じっと見入ってるわけではなく、二台のモニターに映しているのをちらりちらりと視界の端で覗いていて、注意をひく場面が目につくと、そのPCのボリュームを上げてしばし見るといったスタイルだ。
国が違えば文化も違うので、同じような文化度であっても違いに驚くシーンが多い。私は歳をとったせいか、孫であってもおかしくない「女子アナ」につい目が行ってしまう。日本でもNHKと民放では明らかに女子アナの選定基準が異なっており、それがまた多彩さを生んでいて、テレビ視聴を華やかに楽しませてくれている。
この女子アナ、韓国やスペインのテレビに登場する、例えばニュースキャスターや天気予報士など、番組的にはまったく同じものでも、登場する姿には大きな違いがある。
韓国のテレビに登場する女子アナの多くは、腰がガンと張った美脚に拘らない下半身に、綺麗にメイクアップした顔の組み合わせで、韓国人らしい美しさをアピールしている。
またスペインのテレビでは西洋人らしい骨格のしっかりした体格に自己主張のある大胆にメイクアップした大人の顔で、「女子アナ」という語が幼く感じられるほどだ。
ここで扱っている女子アナの美は、文化的な美の記号であると同時に、私にとっては異性の美としての生物学的な反応も含んでいる。だからこそ、文化差がそのまま「異性の美の差」として強く知覚される
日本に住んでいて、日常的に美しい日本女性の女子アナに慣れ親しんでいると、どちらに転んでも違和感は禁じ得ない。
国際ニュースでは短時間であるが、諸外国のニュース番組が紹介されることがあるが、「日本人女性より魅力的だ」と感じることは多くない。
―― しかし、この感覚がいかに相対的であるかを私は痛感した経験がある。
三十代になったばかりで経験した一年余りのスペイン留学から帰国したときのことだった。私は、銀行本店の国際企画部を挨拶に訪れた。留学直前にそれまで勤務していた都下の支店からしばらく籍を置いていた部署だったのだが、才女が多い本部の雰囲気に気遅れをしたくらいだった。
私が留学を終え、その部署を再訪したとき、私は自分の目を疑った。
そこには私を魅了した大人の女性の姿はなかった。
みんな小学生か中学生の「子供」に見えたのだ。
これには自分は驚いた。相手はおそらく変わっていないのに、変わったのは私の目だった。スペインで成熟した顔立ちの容姿を日常的に見続けるうちに、私の美の基準が完全に置き換えられていたのだ。
白人の西洋人と黄色人種のアジア人の大きな違いは、生まれてから老化に向かう速度である。美しさ可愛さのピークは十代に訪れ、二十代には早くも大人っぽさが支配する。そこからの日本人との差は言うに言葉をはばかる。
私が留学を開始した直後に車でスペイン一周旅行をしたが、そのとき訪れた南部アンダルシア地方の地中海沿岸の街の海岸で、中高生くらいに見える美人の女性に逢った。まだ片言しか話せない私は、それでも会話を試みた。相手は珍しい日本人だと知って一生懸命相手をしてくれた。
その子に歳を尋ねた時の答えのスペイン語は今でも耳に残っている。
「ヌエベ」と言ったのだ。9歳だったのである。私は予想もしなかった答えに腰を抜かしそうになり、仕方ないので「ボクの名前は日本語でこう書くんだよ」と言って砂浜に棒切れで名前を大きく書いてその場を取り繕った。
こういった体験は、私に美の基準の脆さを教えた。
美しさの基準ほど、主観的で相対的なものはない。
人は自分が身を置く文化の中で形成された「比較対象の集合」の中で美を判断している。
ただし、異性に対する美的感受性だけは、文化的な美とは別に、生物学的な本
能が強く働く領域である。女子アナを見るときの美が強く心を動かすのは、この二つの層が重なっているからだ。
国をまたいでも、自然の美しさや心の美しさには共有される部分が多い。しかし異性の美だけは、文化と本能の二重構造の中で特別な位置を占めている。
美の基準は文化がつくり、文化が知覚を変える。
国境を越えると、美は別の顔を持つ。