スマホが広まった今では、誰もが写真を簡単に撮影し、溢れるほどの数の写真をメモリーやネット空間に保存している。 もはや一度に全部を見ることなど到底できない。 撮る側は、枚数などまったく気にしない。 子どもにスマホを渡して、訳も分からずシャッターを押しまくられても、怒る親はいない。
それに比べて、昔のフィルムカメラ時代の写真は違った。 一本三十六枚撮りの貴重なフィルムを、一枚撮るごとに残りの枚数を確認しながら、一枚、一枚を大切に撮影した。 旅行の時は、ポケットやカバンに予備のフィルムを何本か忍ばせていた。 シャッターを押す時の気持ちも今とはまったく違い、息を殺して「うまく写りますように」と祈りを込めてシャッターボタンを押した。 そして、「カシャリ」という機械式シャッターの音に、ファインダーの中の景色を「切り取った」確かさを感じたものだ。
その違いは、撮った結果にはっきりと表れている。 フィルム時代の一枚の重さは、今のスマホで撮影された一枚と比べると比較にならないほど重い。
毎日のように聞く「愛してる」という言葉より、滅多に聞かない「愛してる」の一言の方が、はるかに心を動かすのに似ている。
もちろん、簡単にたくさんの写真が撮れるようになって良くなったことも多い。 シャッターチャンスを逃さない。 ひとつの対象を多くの角度から多面的に捉えられる。 撮影が得意でない人でも、数打つ中でナイスショットを得ることができる。 写真撮影が、愛好家の手から、老若男女を問わずすべての人の手に広がった。
しかし、何かイベントがあると、すべての観衆が一様に手を高く上げてスマホで動画を撮っている様は、まことに滑稽に見える。 「そんな皆と同じものを撮って、どうするの?」と、 万事、他人と同じことをするのが好きでない私には、とても違和感のある光景だ。
限られた枚数で撮られた一枚が、強烈にある思い出を呼び起こし、胸を締め付けることがある。 不思議なことに、スマホで撮った写真のように、前後に似たような写真が大量に並んでいる中に埋もれてしまうと、その一枚は輝かない。 心に響くのは、いつも「一枚の絵」だ。 太古の昔から、人類が絵を描いてきたのは、写真がなかったからというだけではない。 ひとつの絵には、その瞬間の人間の感性が切り取られており、そこに気持ちを込めるのに、正確な写実性は必ずしも必要ではなかった。
その「一枚の絵」を、写真で撮ることはできる。 それを追い求めているのが、プロ・アマを問わず、写真家たちだ。
タイムラプス・フォトグラファーというプロ写真家の端くれとして名を連ねた者として、私が確信しているのは、撮影の神髄はファインダーで覗いた景色を「一枚の絵に切り抜く」という確たる気持ちにあるということだ。
よく目にする光景だが、スマホやデジカメでやたらに連写している姿を見ると、少し残念に思ってしまう。 スポーツとか通過する列車を撮影するのなら、仕方がないしそれがベストの撮影法だ。 切り出す絵のイメージを持っていても、指の運動機能として移動する被写体についていけないからだ。
しかし、風景や動きがゆっくりしている被写体を撮るのに連写するのは悲しい。 自分の感性に自信がないから、とにかく撮れるだけ撮っておいて、あとで一番良い物を選ぼうという魂胆なら、その写真は撮影者の魂が描いた作品とは言えない。
特別の一枚の写真は、観ると凝視してしまう。 次から次に思い出湧き上がり、涙が出そうになる時も、身体が震えそうになる時もある。
そんな一枚を撮りたいし、大切にしたい。