人は誰しも最期を迎える。
だが、その話は必ずしも暗いものではない。
どれほど元気であっても、やがて訪れるその時を、私は静かに見つめている。
私の父は大動脈瘤の手術を受けたが、施術に不手際があり、ICUで二カ月半を過ごした末、多臓器不全で亡くなった。
手術室へ向かうためストレッチャーに載せられ、父が目の前を通り過ぎたとき、私たちに向かって片手を高く揚げた。
「行ってくるぞ」と言わんばかりの、覚悟を決めた勇ましい姿だった。
その一瞬に、第二次世界大戦で戦艦伊勢に乗って従軍した海軍中尉としての父の面影を見た。
手術直後、ICUで面会したときには、まだ僅かに話ができた。
私の手を握り、「後を頼む」と言うように、もう片方の手を反対側から持ち上げて持ってきてパンと挟んでくれた。 そんなことをされたのは初めてで、私は驚き、そして胸が熱くなった。
自分の最期を知り、自分で自身を看取るようにしてこの世と別れられたら ―― 。 そんなふうに思うことがある。
人の命は、老衰や加齢による病だけで終わるわけではない。
五十歳を過ぎれば死亡率は上がり、七十歳以上に多くが集中する。
しかし、五十歳以下でも五パーセントの人が命を落としている。
事故死を含めれば、誰にでも突然その時が訪れる可能性がある。
事故による即死なら考える間もないが、多くの場合、人は自らの死と向き合う時間を少なからず持つ。
事故死はあまりにも悲惨で、そして本当の即死でない限り「痛い」。
私は意外と弱虫なので、痛い最期だけはどうしても避けたい。
やはり、理想は睡眠中に息を引き取ることだ。
身の周りにも何人かいる。
朝になったら布団の中で息を引き取っていた ―― そんな最期である。
父ができたように、例え僅かであっても、大切な人に言葉や仕草を残せずこの世を去るのは寂しい。
しかし、残そうとするときは余計に寂しい。
所詮、別れはどんな形でも寂しいものなのだ。
むしろ、お互いに別れの時を知らずに去っていけるのが、一番の幸せなのかもしれない。
映画でも、「あとをよろしく頼む。」「幸せだった。ありがとう。」などの言葉を最期に息を引き取る場面がよくある。
象徴的な最期の姿だ。
言った側は満足かもしれないが、聞かされた側は、その一言を一生抱えて生きていく。
嬉しくもあり、辛くもあり、胸が締めつけられるような重さを持つ。
私は誰であれ、逝く人にそんな言葉を聞かされたら、涙が噴き出し、心が引き裂かれてしまうと思う。
それでも ――
自分が逆の立場だったら、そう言うかもしれない。