「偉人」という言葉への疑い ― なぜ私たちは権力者の物語に酔ってしまうのか

今放送されているNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に始まり、テレビや映画で歴史上の偉人を取り上げた作品は昔から数多くある。 私はこの類の作品を見るたびに、複雑な思いにとらわれる。 「偉人とは何か」という、歴史を振り返る際の基本的な観念が揺さぶられるからである。 学校の歴史の授業でも、各時代の主要な偉人として、その名前や成し遂げた「功績」を学ばされてきた。 しかし、そこには「偉人」という語の定義に対する検証や評価はなく、文字通り「偉い人」という前提が置かれていた。

 

私は、彼らが歴史を動かし、流れを作ったこと自体は認める、 しかし、だからといってそれが「偉いこと」であり、ゆえに彼らが「偉人」であると短絡的に考えることはできない。 今は民主主義の時代であり、一部の専制的な国家を除けば、力ある者が暴力や圧力で人民を支配し、世の中を動かしているわけではない。

 

しかし人類の長い歴史の中で民主主義が広まったのはごく最近のことであり、歴史年表の端にかろうじて記される一本の線にすぎない。 しかも現在も存在する一部の専制国家は、まさに人類が歩んできた歴史そのものを、今もそのまま見せ続けている。 暴力・征服・支配によって地位を得た人間たちが、ふんぞり返って権力をほしいままにしている。 そうした姿を歴史上の「偉人」と重ね合わせると、彼らを「偉人」で呼ぶことなど到底できないのである。

 

「偉人」とされる人間の「功績」は、いったい誰の視点で語られたものなのか。 その裏でどれだけの人が犠牲になったのか。 その権力はどうやって手に入れたのか。 こうした問いよりも、世の中を動かした事実だけが強調されている。

 

世界中のどこの国にも、どの部族にも、必ずその社会を治める長が存在する。どれほど昔に遡っても、その社会の人々が平等に共同統治していた痕跡は残っていない。 それどころか、どの時代に遡っても、巨大な統治者の墓や記念碑が必ず残されている。 民主的な選挙で選ばれたわけではなく、力によってねじ伏せた一人の人間の欲望と思い上がりが歴史を作ってきたのだ。 歴史を語る際に「主役」とされる人物は、語り手が選んだにすぎない。 彼らは歴史を動かしたかもしれないが、それは決して「偉い」ことではない。

 

なぜ歴史は権力者の視点で描かれ、それを多くの人たちが偉人として受け入れ、その支配の痕跡である史跡が観光名所になっているのだろう。 なぜテレビや書籍で人気を博しているのだろう。 極端な言い方をすれば、大悪人の犯行の手口を美しく感動的に描いたドラマをなぜ人々は称賛し感動するのだろう。 

 

歴史と言う長い時間がすべてを美化してしまうのだろうか。 敗者は記録を残せない。 残された資料の多くが権力者の視点で書かれているため、偽物の偉人像が形成されている。 それを安易に物語の主人公として選んでしまう。 これでは大悪人の思うつぼだと私は思う。

 

権力者の物語には決して酔ってはいけない。 歴史の裏側にいる無数の人々に思いを馳せると同時に「時間が暴力を美化する」という事実への警戒心を、決して忘れてはならない。

 

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