日本を含む東南アジアの多くの国々では、床に座る文化が中心で、とりわけ日本では畳が誕生し、ただの床板やゴザを敷いた床とは異なる独特の床座文化に発展した。
東南アジアで椅子が使われるようになったのは、16世紀以降ヨーロッパ列強が植民地進出と共に持ち込んで来たのが最初で、それも一部の富裕層に限られていた。 20世紀に入って普及が進み、戦後になって近代化が進む中、一般家庭でも椅子の使用が一般化した。
私の小学校時代の教室で使われていた椅子はすべて木製だった。 今から思うと良くあんな椅子でお尻や背中が痛くならなかったなと思うが、それが当たり前だった。 一部の同級生は親が作ってくれた小さな座布団を持ち込んで椅子の座面に縛りつけて使っていたが、それほど羨ましいとは思わなかった。 おそらく椅子は固くて痛いのが当たり前だと思っていたのだろう。
中学校以降は、椅子の脚部分が黒い鉄パイプ製に変わったが、肝心の座面と背面は木のままだった。
大学を卒業して銀行に就職してから灰色のビニール・レザー張りの事務椅子に出逢った。 座面はスプリング入りでそこそこ柔らかいし、脚には車がついているので、座ったまま移動ができる便利な椅子だと喜んだ。 そしてひじ掛け付の「立派な」椅子を間近に見たのも初めてだった。 ひじ掛け付きの椅子は役職者のみが使える事も知った。
そして、そのひじ掛け付きの椅子には3つグレードがあるのに気がついた。 平社員用のひじ掛けのついてない椅子の両脇に貧弱なひじ掛けを取り付けたものが係長クラス用、座面が大きくなりひじ掛けも太くなって立派になった物が課長クラス用、そして支店長の椅子は更に大きく豪華で座面がフカフカで、ひじ掛けはパイプの上にクッション部が付いたものではなく、左右から背もたれと同じように平面が上がってきている立派な仕様だった。
同じ人間なのに、まるで封建時代の王様と家来の違いがあり、そこで働いている誰もがそれを疑問に思わず受け入れている事に、まだ学生気分が抜け切っていない私は社会人世界の異様さを感じたものだ。
その後、私は50歳過ぎで早期退職するまで、「支店長の椅子」に座る機会はなかった。 「課長の椅子」止まりであった。 早期退職後に幾つか体験した中小企業への転職先ではもうちょっとグレードが高そうな「部長の椅子」とか「役員の椅子」が与えられた。 しかしあの「支店長の椅子」のグレードには届かなかった。
それから20年経って現役を引退した今、私は家で椅子に座っている時間がとても長い。 それも居間のソファやゆったりとした椅子ではなく、仕事用の事務椅子だ。 昔から、電子機器機の製作時、アマチュア無線の交信時、PCの操作の為だ。 今は一日の殆どをPCに向かって色々な作業をしている。 何かしていないと済まない性分なのだ。
最近まで以前に中古家具店で購入して来た比較的立派なひじ掛け付のビニール・レザー張り事務椅子を使って来たが、さすがにガタが来て高さ調整が出来なくなったり、若干傾いて来たりして長時間座っていると疲れる様になって来た。 腰を痛めそうになって来たのでしかたなく苦労して分解して廃棄した。
廃棄したのはいいが、代わりの椅子がない。 隣の部屋に使わずに置いてあったひじ掛けもない布張りの簡単な事務椅子を持って来たが、座面の置行が短い事もあり、長時間座っているとお尻や太腿が痛くて耐えられなくなる。 これならまだ捨てた傾いた椅子の方がましだったと後悔した。
仕方なく、新しく椅子を購入する事にした。 年金生活の身になった今は、昔の様に何でもポンと買う訳にはいかない。 かと言って、現役引退後の私の毎日の生活のほとんどを過ごす椅子は極めて大切で、生活の質を決定付けるくらいの存在だ。
色々物色したら「社長の椅子」と言う宣伝文句で売り出していた商品広告に目が留まった。 私には琴線に触れる文句だった。 現役時代に座る事の無かったあの「支店長の椅子」が思い出された。 私は会社人間ではなかったので、「支店長のポスト」には関心がなかったが、「支店長の椅子」には初めて目にした時から憧れの様な物を持っていたようだ。
価格は1万5千円と驚くほど安かった。 家具専門店のオリジナル商品と較べると半額以下だ。 想い出の中の「支店長の椅子」は、いかにも昔風なもっと風格がある重厚な作りであったが、座り心地はこちらの方が間違いなく良さそうだし、リクライニング機能が魅力そうに見えた。 安かろう・悪かろうのリスクはあったが、駄目であっても我慢して使おうと覚悟を決めて購入する事にした。
この「社長の椅子」は大当たりだった。 しっかりとした作りで座り心地はソフトで包まれるようだ。 おまけにリクライニングでかなり水平近く傾けられるので、疲れた時に後ろに倒して目をつぶるとあっと言う間に眠りに落ちてしまう。
読書やPC作業用に椅子を探しておられる方がいたら、是非お勧めしたい製品だ。 ネット通販サイトで「社長の椅子」で検索すると類似商品がぞろぞろ出て来るはずだ。 私以外にも如何に「社長の椅子」に惹かれる人が多いかの現れだ。
初めて出逢ってから50年経っていた。 こんな安い価格でこんな立派な製品がある事は知らなかった。 あの「支店長の椅子」はあの当時、例え50年前の安い物価水準でもとてもこの価格では買えなかったに違いない。 技術革新の賜物で、ポンと手が届く様になった。
元々探そうともしなかったし、わざわざ買いたいとも思った事はなかったので、家にある物をずっと使って来た。 しかし、今や毎日の隠居生活でPCに向かう椅子が一番大切な場所になった事と、懐かしく思い出される昔の想い出が、私を動かす事になった。
