最近は随分変わった。 私が若い頃は歩行者の私が横断歩道の端に立っていても、止まってくれる車は一台もなかった。 狭い通りで後ろから車が近づいて来ると、私を追い越す前に必ず警告のクラクションを鳴らされた。 別に驚きもしないし、腹も立たなかった。 それが普通であったからである。
私が大学卒業前にアメリカ旅行に行った時、ロサンゼルスの郊外を散歩していた。 片側2車線のゆったりとした立派な車道の両側には広い歩道が整備されていた。 私は道路の反対側の建物を見ていた。車道合計4車線と広い歩道が間にあるので、距離的には結構離れていた。 立派な建物だなぁと思って見ていた。
気が付くと私から見て道路の中央線を挟んだ向こう側の車線に、大きなアメ車の乗用車が2台横に並んだまま停止したのに気が付いた。 何故停止したのか私には訳がわからなかったが、ドライバーの様子を見ると私に「どうぞ渡ってください」と言っているようだった。
私は面喰った。 もとより渡るつもりはなく、しかも横断歩道でもない所で道路の反対側をぼ~っと見ていただけだ。 だから誰が見ても外観的には渡ろうとか渡りたいと言った姿勢をしていた訳ではない。 困ったなと思ったが、私は用もないのに仕方なく小走りに合計4車線の道路を向こう側に渡った。
当時の日本では絶対に起こり得ない事だった。 例え手を上げて渡ろうとしても「危ねぇぞ~~!」とクラクションを鳴らされるのが落ちだったと思う。
私は、その時のアメリカ旅行で随所で見て来た人々の優しさとか、思いやりのある行動や紳士的な身の振る舞いにいたく感動して帰国した。 日本との文化度の差は歴然としていた。 「アメリカ人って凄い!」と、その後永い間アメリカに対して敬意と憧れを抱く事になった。
あれから50年経った今、日本の運転マナーは様変わりした。 横断歩道の端に立っていればほとんどの車は止まってくれる。 たまに止まらないで走って行く車もいるが、その多くは渡ろうとしている私に気が付かない「ケアレス派」だと思う。
私としてはのんびり歩いて渡りたいので、先に車に通り過ぎて行ってもらいたいのだが、止まられてしまうと手を軽く上げて謝意を示し、小走りに走って渡る事になる。 かえって疲れるのだが、止まってくれた気持ちを無下(むげ)にはできない。 かつてアメリカで経験したのと同じ、うれしい「困った」だ。
狭い道を歩いていて、後ろから車が近づいて来てもクラクションを鳴らす車はまずいない。 そっとついて来て、その先でちょっと道幅が広くなる所に行くまで待っている事もある。 最近の車は電気モーターで走る事が多く、エンジン音がしないので、後ろから近づかれてもわかりにくい。 わざとスピーカーから優しい連続音を出して気付いてもらえる様な作りにはなっているが、すぐ近くに来ないと聴こえないので怖い。 これはこれで困ったものだと思うくらい運転マナーは向上した。
現役時代に仕事の出張で東南アジアの国々には良く出かけた。 シンガポールのように狭い国土を活かして厳しくモラル高く法整備され、地の利を活かして経済発展した国を除いて、多くの国は少し前までは発展途上だった。 街に出ると人々の喧騒と古い車のエンジン音に交じってあちこちの車がクラクションを鳴らしっぱなしで、実に賑やかだった。 もちろん車優先である。 歩行者に道を譲ろうとする車もないし、それを期待する歩行者もいない。 かつての日本の姿がそこにあった。
国によって、その発展段階の差があり、その運転マナーにはそれがそのまま反映されているのが良く分かる。 運転マナーはまさにその国の文化度のバロメーターだ。 衣食住足りてこそ周りの人達や社会との関わり合い方に気を配る余裕が出て来るその過程が良く分かる。
さて、確かに日本のこの50年間の様変わりした運転マナーの変化を見ると、日本の文化度は大きく向上したかの様に見えるのだが、手放しで向上したと評価するにはちょっと疑問がある。
毎朝ゴミ拾いをしていると一方で何が起きているかよくわかる。 道路の陸橋の頂上近辺の人の目の届かない辺りとか、人通りのない地域走る道路の両側は車の窓から投げ捨てられたゴミで一杯だ。
車の灰皿のタバコを走りながら中身をひっくり返してまとまって捨てられた吸い殻とか、何処かのコンビニで買って運転しながら食べた後のパンやおにぎりの包装紙、食べた後のおかずのパック、ドリンクの紙パックが順番に投げ捨てられていたり、レジ袋ごと投げ捨てられている。
ドリンク缶やペットボトルが、ほとんど歩行者の通らない畑の中の長い道の両側には「これでもか」と言わんばかりにごろごろしている。 車の窓からゴミを外に投げ捨てる事が「運転マナー」と言う言葉の範疇に含まれるのかどうかは分からないが、同じ運転手が運転しながらしている行為だ。
あれを見ると日本の文化度は決して自慢できるレベルにはないと言わざるを得ない。 表では恰好をつけていても、裏の人の目の届かない所では同じ人間とは思えないような行動を平気でしている。
かく言う私についてだが、あれだけアメリカで高い文化度に触れて感動して来た割には、自分のその後の行動にはあまり反映されなかった。 特に若かった頃は横断したそうにしている歩行者の前で止まった記憶はあまりないし、ラッパ(クラクション)も良く鳴らした。 走る車の窓からタバコのポイ捨ては日常茶飯事だった。
それがやっと変わり始めたのは、歳をとって自らを振り返る様になってからだった。
今は、自分の心の持ち様が随分変わったと思う。 今は、マナー以前に他の車や歩行者に対してできるだけ優しく接したいと思う。 相手がどうしてもそうしたいと言うのなら、そうさせてあげようと思う。 クラクションを鳴らして警告したりせず、こちらが止まるなりして危険を避けようと思う。 あとで誰かがそれを拾うのだと考えたら、車内のゴミを外に投げ捨てるなんて事は絶対に出来ない。
こんな心の変化は、歳をとって自らを省みる様になった結果、人に対して優しい気持ちを持つようになったからだと思う。 もしかしたら、体力の低下を背景に、本能的に極力人との摩擦を避けるようになった事もあるのかもしれない。
こんな事がもっと早く、年寄りになる前の若い世代から出来ていなければ、一国の文化度は簡単には上がらないのだと思う。