社会人へのステップとなったアルバイト

私の学生時代は、勉強はおろそかで殆どアルバイト漬けだった。 お金を稼いで趣味につぎ込みたかったからだ。 今から思えば、親には随分な不義理をしたと思う。 遊び暮らしていて大学受験に失敗し,浪人した。 予備校の費用も随分かかったが、確かその予備校も通わなくなって友達と一緒にアマチュア無線に励んだりして遊び暮らしていた。

 

一年経って、再度大学受験が迫って来た1月になってやっと勉強を始めた。 そんな一夜漬けでまともに成果が出る訳ない。 それでも某私立大学にやっと「補欠」で合格した。 そのせいで補欠の特別入学金まで払う事になった。 そして4年間の授業料である。 文科系だったので理科系よりはましだったと思うが、それでも私立大学の授業料は高い。

 

それなのに、遊び暮らして大学生活を送る私に、両親はどれだけ無念の気持ちを抱いていたか、今の私なら痛い程わかる。 父は教育者であったにも関わらずただの一度もそんな私に苦言を呈した事はなかった。 今、その胸中を思うと父の偉大さと私の不甲斐なさに言葉が無い。 本当に親不孝をしたものだ。 しかも悪びれもせず堂々と。

 

その学生時代にアルバイトを2つ経験した。 ひとつは友達の親がやっていた警備会社のガードマン、もうひとつはトラック運転手だ。

 

警備会社のアルバイトは、相模原にある機械メーカーの工場の門番・警備と、近くの電車の駅までの社員の送り迎えが仕事だった。 そこで一緒に仕事をした年配の人が私の人生で始めて出逢った「同僚」だった。 今から思うと670歳くらいの人だったのではないかと思う。 寒い冬、警備室のストーブの上の鍋でインスタントラーメンを作って、鼻水を垂らしながら「これは旨いんだ!」と言いながら音をたてて食べている姿がとても印象的だった。

 

ガードマンの仕事は24時間だった。 夜中遅くに仮眠室で2~3時間だけ寝る事が許されていた。 若かったのでそれは全く辛くなかった。 夜は正門横の大きな警備室は「先輩」に任せて、私は工場建物群の中の小さな監視小屋で見張る事になっていた。 1畳あるかどうかの椅子で座っているだけの小屋だ。 足元に電気ストーブを置いて、いつもアマチュア無線関係の本や雑誌を読んでいた。 いたって適当な仕事であった。

 

長時間勤務とだけあって、アルバイト代は結構良かった。 しかし隔日勤務となるし、自宅からその工場の場所も遠かったので、ひと冬頑張ったあとやめる事にした。

 

その代わり始めたのが、トラックの運転手である。 これは私にぴったりであった。 運転が好きであったし、独りでやる仕事で煩わしさが無かった。 体力には自信があったので快調に滑り出した。

 

トラックの運転のアルバイトには大きな魅力があった。 トラックが仕事終了後、自宅に持ち帰りが許されていた事だ。 三菱キャンターと言う2トン車だった。 調度友達から3万円で買ったポンコツ軽自動車を手放した後だったので、願ってもない「自家用車」だった。 土日はトラックでドライブを楽しんでいた。 当時付き合っていた彼女とのデートも、このトラックでのドライブだった。 走行距離メーターのチェックもしないし、事業所の中にあった自社用のガソリンスタンドで軽油も入れたい放題だった。

 

実はトラックのアルバイトを始める前に都内の洋服メーカーでバンの運転手を何ヶ月かやったのだが、そこでは距離メーターのチェックが行われていたので、週末はハンドルの下に潜り込んで距離メーターの裏側からケーブルを引っこ抜く「手間」が掛かっていた。 今の車と異なり、速度計(積算距離計)はケーブルの芯を回転させる機械式だったので出来た悪行だった。 その手間から解放されて、まさに天職を得た気持ちだった。

 

またこの太っ腹の運送会社は、私が自由にトラックに手を加えるのをだまって看過してくれた。 助手席に当時の大きな真空管式アマチュア無線機を積み、荷台に掛かっていた大きな幌の角を突き破ってパイプを上に出して短波帯のアンテナ・ワイヤーを車の前から後ろまで張って、走行中にアマチュア無線で国内の遠隔地と短波で無線交信ができるようにした。 当時良く交信していたアラスカのお友達と時間と周波数をあらかじめ決めて、走りながら海を越えた交信を成功させた事もあった。

 

なによりも大きかった魅力は、まだ大学生になったばかりの私に、外の世界を知る絶好の機会を与えてくれた事だった。 通常は東京都内や近郊が走行テリトリーだったが、時には遠く離れた地方都市を往復する事もあった。 このアルバイトのおかげで私の行動範囲は今までの地元限定から広く地方に拡大される事になった。

 

そこで見る物・聞く物すべてが初めてであり、未知の世界が私を大いに刺激し夢中にさせた。 自分の世界が日増しに広がって行くのを感じた。 生まれてから親に育てられ、地元と言うごく限られた世界の中で生きて来た自分が、解き放たれたように周りの広い世界に飛び出したのだ。 あの貴重な体験を社会に踏み出す前にできた事は、私にとって何よりも大きく貴重な経験となった。

 

私が大学を卒業して会社に就職して、最初に買った車は、迷わず貨物車だった。 貨物車と言ってもさすがにトラックではなく、一番最初に短期間アルバイトをした時に乗ったバンと同じで、日産キャラバンの貨物車だった。 アルバイトの「お陰」で乗用車には興味がなかった。 私はそのバンを丸1年かけてキャンピングカーに改造する事になった。

 

私にとってアルバイトはとても大きな存在となった。 大学で勉強はしなかったが、社会人生活を始めるステップとなってくれた。

 

アルバイトはお金を稼ぐために始めた事だった。 大学の勉強もそっちのけで多くの時間をアルバイトで過ごした。 お金を稼ぎたいのなら、高校卒業時になぜ自分は就職しないで進学したのか。 親に高い金を払わせて学生の身分だけを買って、遊び暮らすためにアルバイトをしていたのか。 その時は目の前の美味しそうな餌にかぶりついていただけで、何も深く考えなかった。

 

大学卒業してスーツに身を固めてサラリーマンとなった時に、その意味を初めて知った。 サラリーマンになり、その会社の独自の文化が支配する狭い世界が全てになった時、いつも記憶の中に浮かぶアルバイトの世界で体験した仕事や出逢った人達の顔が、それが世の中の全てではない事を語りかけてくれていた。

 

学生時代のアルバイトは、社会人としての進路を選ぶ前に、社会とはどんな世界なのかを体験させてくれる場だった。 そして社会人として活躍するようになった時に、目の前の仕事だけに目を奪われる事なく、世の中を広く捉えられる目を養ってくれる場であった。

 

自分が進んだ道と全く異なった世界での体験が、その後の人生でどれだけ価値や意味があるものとなったのか計り知れない。 現役引退となった今となっても、あのアルバイト時代を思い出すと、胸を高鳴らせながら経験した新鮮な別世界が眩しく思い出される。

 

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