都市銀行のトップにまで上り詰めた後輩

サラリーマン時代を振り返って絶対に忘れられない人がいる。 その人とは私の1年後輩の事だ。 永年のサラリーマン生活で唯一心から尊敬している「後輩」だ。 仮にM君と呼ぶ事にする。

 

この話をするにはどうしても私の正体を明かさなければならない。 私と言う人間の実の姿との隔たりが大きいのに、間違ったイメージで私を見られてしまう様な気がして、できるだけ触れない様にして来たのだが、どこかで口が滑った事はあったかもしれない。 まず、私は基本的にはみ出し者だった事を重々お断りした上で明かすのだが、私はある大手都市銀行の銀行員だった。

 

実は、私の勤めていた銀行と言う職場は上下関係が大変厳しい世界で、1年違ったら親分と子分の差があった。 初めて知らない行員に会う時は、とにかく丁寧に挨拶をする。 相手が先輩であったとしても失礼な事にならないように言葉も姿勢も丁寧に選ぶ。

 

そして話をしながら、話のどこかで入行年度をちらりと話題に出して、そのリアクションをきっかけに相手が先輩か後輩かを探る。 そして上下関係がはっきりした途端に、先輩の方はぐっと姿勢が高くなり、言葉遣いが変わる。 後輩の方は元々とっていた低い姿勢を更にぐっと下げて、先輩を敬うモードに入る。 まるで体育会系の社会だった。

 

私とM君との出逢いは、本店の外国為替のディーリング・ルーム(ドル・円為替の売買をする部署)に私が配属された33歳の時だった。 彼は1年ほど前からそこにいた様だが、私は海外留学先から戻ったばかりの配属で、その環境の変化の大きさに戸惑った。

 

まだ新しい職場で見習い中の着任のわずか1カ月後に先進五か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議より「プラザ合意」(1985年)が発表され、それをきっかけにドル円の為替相場が歴史的な大暴落を始めた。 毎日の様にどこかの銀行か為替ブローカーのディーリングルームにTVカメラが入り、喧噪の様子がTVニュースで放送されていた。 毎日が狂乱と騒乱の一日で、私は飛んでもない職場に来たなと覚悟を新たにした。

 

M君は市場班のチーフ・ディーラー、そして着任後間もない私はすぐに顧客班のチーフ・ディーラーとして20数名が囲む大きな円卓で彼と隣り合わせに席を並べた。 顧客班のディーラー達は全国の支店や大手のお客様と直接電話で為替の売買注文を請け、M君が出した値で売買が成立すると、市場班のディーラー達は何社かある為替ブローカーと常時電話をつなぎながら、M君から出される指示で間髪入れず受話器に大声で絶叫して売買をしていた。

 

M君は、私の隣の席で一日中張り詰めた緊張感の中で、冷静ではあるが行くと決めた時には豪快で迷いのない大声で売買指示を飛ばしていた。 一発判断を誤ればその瞬間に1億円を超える巨額の損が発生する事もある。 同じ銀行員でこんなに一人でリスクの高い業務を任されているのに私は目を疑った。 同じ銀行員でも支店の行員は、勘定が1円合わなくても大騒ぎしている事を考えると、とても同じ企業の話とは思えなかった。

私は同じチーフ・ディーラーでも相手は外為市場ではなく、銀行のお客様サイドだったので、相場動向や相場予想などの話を伝えたり、仕切り上のトラブルの対応などの指揮をとるのが主な役割だった。

 

M君の仕事は、まず頭脳明晰である事、集中力がある事、判断力・決断力がある事、勇気がある事、そしてどんな時でも冷静である事が求められていた。 あたかも戦場の真っただ中の指揮官のようなものだ。 私の仕事に求められているものはあくまでも銃後の世界での役割であったので、同じチーフでもM君と私の間には雲泥の差があるといつも感じていた。

 

今まで見た事もない様な、明らかに先輩の私よりあらゆる面で優秀で男らしい姿を見せてくれるM君は、こんな私をいつも低姿勢に「さん付け」で呼んでいた。 年齢の上下はともかく、職務上M君と私は同格であり、どちらが上と言う事はなかったが、彼に課された職責の重さには私のそれより遥かに上だった。

 

しかし彼は一度もそのような素振りは見せなかったし、3年近く彼と一緒に仕事をした間、彼はどんな時でも、冗談話をする時でも必ず私を先輩として立てていた。 それは無理に形だけ装っているのではなく、心から私を先輩として大切にしてくれている様だった。

 

私はその後、その職場の上司と折が合わず、M君より先に他の本部の部署に転勤する事になった。 しかし、同じ本店ビル内であったので、その後もM君は機会を見つけては私に声を掛けてくれ、一緒に歓談する事が何度かあった。 また年賀状だけではなく、折に触れ封書が届き、中には縦書便せんに丁寧な手書きでしたためた長い手紙が入っていた。 内容はいつも私を先輩として慕ってくれている事を感じさせる物ばかりだった。

 

気が付けば、彼は人事部に転籍していた。 人事部に転籍すると言う事は、どこの会社でも将来を嘱望され、その企業の人選を決定するに値する信頼された人物と言う事だ。 M君はまさにそれに相応しい人間だった。

 

その後、銀行界を再編の波が襲った。 いくつもの金融機関が生き残りを賭けて合併・統合を繰り返した。 多聞に漏れず、私のいた銀行も他の銀行と合併する事になった。 各金融機関のトップ経営陣は様々な葛藤の中で苦渋の決断を強いられ、針路を選んで行った。 その時、気が付いたらM君はすでに取締役になっていた。 私は当然だと思った。 彼が役員にならずして誰がなるかと思った。

 

私は自分のいた銀行が合併をして組織が新しくなった翌年、調度良い機会だと思って早期退職をし、新しい会社に新たな活路を見出す事を決心した。 M君との手紙のやり取りはそれからもずっと続いた。

 

ある手紙で、銀行が統合した時のトップの判断にちょっと私が苦言を呈した事があった。 その手紙に彼がくれた返事には、慎重に言葉を選びながらも私の意見に正面から反論する事はないものの、私の言葉を残念に思う気持ちがにじんだ丁寧な言葉が記されていた。 彼が私の言葉にどれだけ無念を感じたか伺われた。 私は彼がトップの世界にいた事を考えもっと言葉を選ぶべきだった。

 

その後M君がなんと副頭取になった事を知った。 これはもう誰からしても宇宙人の世界だ。 そんな彼は一度も自分自身の立場を自慢した事がなかった。 40年前に初めて会った時からそうだった。

 

銀行同志の合併・統合なので、旧行出身者へのバランス・配慮など微妙な問題がある中で、彼は頭取にこそならなかったが、あそこまで行ったら「なる・ならない」は、その時のタイミングと政治的判断の結果だ。 M君は立派に大銀行のトップに上り詰めたのだ。

 

私みたいな不良銀行員に、たった1年先輩だからと言って、この期に及んでもまだ「君付け」で呼ばせてくれ、私を「さん付け」で呼んでくれる彼との縁は正に宝物である。 こんな私が心を通わせられるM君と出逢えただけで、あの銀行に就職できて本当に良かったと今でも心の底から思っている。

 

永い銀行員生活で色々な先輩や上司を見て来た。 出世だけを考えてなりふり構わずゴマすって生きている方々もたくさんいた。 能力があり、処世術に長けていれば努力次第である所まで地位は上がって行くのだが、役員クラスとなるとふるいに掛けられるように落ちて行き、その企業の行く末を左右できる真のトップ・グループにたどり着くには、さすがだなと思う人格者だけが残る。

 

箸にも棒にもかからない私を引き合いに出す話では無いのだが、私がどの職場でも大した存在になれなかったのは、仮に能力や技術に長けていたとしても、人の上に立つ人格者としての要件をまるで備えていなかったからだ。

 

私の様に自由気ままにやりたい事に熱中して生きる事は、自分とっては最高の喜びで素晴らしい人生であったとしても、そんな人に上に立たれたらその下に仕える人はたまらないだろう。

 

 

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