若かった頃は祈ると言う事をした記憶がほとんどない。 向こう見ずの怖さ知らずだったので、祈る必要がなかったのではないかと思う。 自分に自信があったし、周りや自分自身を見つめたりする事もなかったので、祈ろうとするきっかけすら無かったと思う。
しかし「同じ家庭の中で妻は毎日祈って暮らし、夫は祈りを知らない傍若無人な暮しをしていた」と言うだけで、その家庭の歪んだ姿が浮き彫りになるくらい「祈り」の持つ意味は大きい。 正直、これは若い頃の我が家の話である。
こんな私が始めて真面目に祈りに向き合う様になったのは、70歳になってやっと人生を振り返る様になってからだった。
祈りには「謝罪」と「感謝」と「願望」があると思われる。
一般的には「~しますように」と祈る願望が多いのだと思うが、私の祈りは過去に自分が犯した数々の過ちに対する「謝罪」をする事から始まった。
そしてそれはやがて「感謝」がとって代わるようになった。 家族全員が頂いている幸せと、こんな私にですら少しでもやり直す機会と言う幸せを頂いた事に感謝し、心の中でひたすら「ありがとうございます」と絶叫する様になった。 しかし未だに「願望」だけは祈る事がない。
ただひとつだけそれに似たような場面はある。 両親の墓参りをする時である。 線香をあげて手を合わせて、最後には必ず「どうか呼ばないでください」と声をかける。 まだ現世への執着があるからだ。 これはお祈りと言うより、お墓の中の両親に面と向かって直接頼んでいるので「願望」のお祈りではないだろう。
元々私は何かを祈ってお願いするくらいだったら、手当たり次第何かできる事から手を付けて行動を起こしてしまうタイプだ。 神様に堂々と「願望」をお祈りできる様なまともな生き方はして来ていないので、なおさらそうせざるを得ない。
そんな私が、祈りに真面目に向き合うようになり、毎朝近くの神社で必ず「二礼二拍手一礼」をして手を合わせお祈りをするようになった。 最初の「ごめんなさい」と言う過去に対する「謝罪」は二カ月ほど続いたが、その後は「ありがとうございます」と言う「感謝」に変わり、気持ちは前向きになった。
そんなお祈りを毎日続けていながら、ちょっと心に引っかかる事があった。 それは拝殿の奥の神様に向かってお祈りをして来たのだが、現実主義の私としては神様が実際に存在する訳ないのに、真面目にお祈りしている自分の姿に段々滑稽さを感じるようになっていたのだ。
しかし回を重ねる度に、実は自分自身、もっと言うと自分の心の中の「良心」に向かってお祈りをしているのではないかと考える様になって来た。 どんな人間にも心の片隅には必ず良心が宿っている。 そんな自分の心の中の良心と向かい合う為に神社があって神様がいるのではないかと考えるようになって来たのだ。
これは気持ちの中でストンと落ちた。 多分これは特別な考えではなく当たり前の事で、多くの人がそう考えているのではないかと思うが、私にとっては大きな発想の転換であった。
元々神を必要としていなかった私は、排他性の強い多くの宗教には全く関心が無かった。 しかし、そう言った宗教がそれぞれの神だけを絶対的な存在として崇拝していても、「神とは、実は自分自身の中にある良心だ」となればその抵抗感は氷解する。
そんな事に気づいた私はまるで胸のつかえが取れた気がして、すごく爽やかな気持ちになった。