死生観という言葉自体に暗さを感じ、死生観を考えるということに後ろ向きで、どこか悲観的な響きを覚えて避けてしまう人は多い。
実際、死生観をめぐる考え方をAIに入力しただけで、「あなたは 1人ではありません。あなたを気遣い、助けたいと思っている人がいます。あなたが連絡できるヘルプラインがあります。」というようなメッセージが返ってきて驚かされることもある。
しかし、それはまったくの勘違いである。
死生観は消滅を語る哲学ではなく、むしろ「生き方の設計図」そのものであるからだ。
人間はどんな強がりを言っても必ず死ぬ。
だからこそ、「お迎えが来るまでは何も考えず、明るく楽しく突っ走った方がよい」という考え方もあるだろう。
しかし、「開き直る」ことができた方が、はるかに利口ではないだろうか。
正体不明の暗雲を視界からそらしているよりも、「消化」してしまった方がはるかに楽になり、これから先の生き方をしっかりと見定められるようになる。
死生観については、宗教や哲学、文学の世界で多く語られてきた。
代表的な考え方は、次の三つに集約されるようだ。
- 死は恐れるものだからこそ、今日を大切に生きようと考える
- 死は避けようとはせず、自然に受け入れるべき流れと考える
- 死は乗り越えるべき通過点であり、その先に真理があると考える
私は、この一年近く毎日エッセイを書きながら、必死に自分と自分の人生について考えてきた。
その結果、見えてきたものも多い。 死生観もその一つである。
私は死について、避けようとはせず、自然に受け入れるべき流れだと考えている。
そこには、「生の延長線上の自然な終わりである自分の最期を、自分で見届けたい」という「諦めない」思いがある。
言い換えると、「静かに、意識を保ったまま、世界と別れたい」ということになる。
日本的な無常観に深く支えられた死生観と言えるかもしれない。
「避けようとはせずに自然に受け入れる」という態度は、自分自身に「覚悟」を生んだ。 この覚悟が、すべての出発点になった。
こうした変化は、最近の日常的な行動を振り返って見てもよくわかる。
神仏の世界に敬意を払うようになったことが、最初に表れた変化であった。
そうしているうちに、「古希を越えた人間として恥じない姿」を強く意識するようになった。
・ 静かな覚悟がすべての出発点
・ 常に回顧し、やり残しの有無を点検し続ける
・ やり残しがあれば、今から何ができるかを問い続ける
・ その実践こそが、今後の取るべき姿勢
古希を超えるまで生きてくれば、間違いや反省点はいくらでもある。
すでに気づいて少しでも償いができたものもあるが、決してすべてではない。
自分では「もういい」と思っていても、心のレベルが少しでも高くなれば、「恥ずかしい」と思うことは出てくる。
人間は都合の悪い事を、「無意識に」あまりこだわらずに結論づけてしまうものだ。
しかし、「もうやり残したことはない」と思える心の充足感で穏やかに最期を迎えられるためには、この点はとても大切である。
そのためには「静かな覚悟」をもって穏やかに自分と向き合えるようになることが必要だ。
自分の人生を振り返る習慣を身につけることから始まって、心の中に静かな覚悟ができるようになると、自分自身が一層客観的に見えてくる。
私は、いつの間にか自分の人生の最後の設計図を描き進めていた。
日々の充実感は、かつてないほど増している。
不安は、早くも前向きな活力と生きがいを描き始めている。