心の中に絵を描くまなざしは、伝わっていた

子どもたちが立派に成長し、それぞれ家庭を持つようになった。 その日常をじじ・ばばの立場から眺めていると、「あっ」と思う瞬間がある。

血のつながりをふと感じるときである。

 

娘の、何事にも徹底して取り組む頑張り屋の性格は、どうやら私の血らしい。

息子の素朴で素直な性格は妻の血らしい。 もちろん良いことばかりではない。 若かった頃の息子の詰めの甘さや集中力の欠如は、妻の血だったということになっている。

 

そんな中、私が長い間気づかずにいたことがある。

娘の写真に宿る、すばらしい描写力だ。

彼女が自然に持っている「カメラマンとしての心と目」である。

 

最初にそれを実感したのは、五年ほど前、私と二人の孫を撮った一枚の写真だった。

 

 

その写真を見た瞬間、私は心を奪われた。

静止画であるにもかかわらず、三人が今にも動き出しそうな気配がある。

一枚の絵の中に、小さな物語が息づいているように感じられた。

 

私はかつてフォトグラファーとして仕事をしたこともあり、写真の撮影ではさまざまな思い出深い経験をしてきた。

いつも一場面ごとに気持ちを研ぎ澄ませ、景色から画角を切り出して、そこに絵を描き切るつもりで全神経を注ぎ込んで撮影をしたものだ。

 

ところが娘は、深く考えたわけでもなく、ただ手持ちのスマホで一枚を撮っただけだった。

気取ることもなく、意識することもなく、彼女の感性のままに構えてシャッターを切っただけ。

その「さらっと撮った一枚」に、私は正直驚いた。

そしてそれは決して一度きりではなかった。

 

「みてね!」に掲載される彼女の写真の中には、描き・主張し・訴えかけてくるものが確かにある。

そんな写真を何枚も見つけるうちに、それは彼女が潜在的に持っていた能力ではないかと思うようになった。

 

今年になって、芝桜が咲き乱れる丘で撮影した写真も、私はとても気に入っている。

 

 

孫娘はもう小学校三年生。

しかし、「まだ」小学校三年生である。

幼い子供とは思えない立ち姿を絵にした素晴らしいショットだと思った。

 

 

この幼稚園の弟と並んで一緒に芝桜に心を奪われている後ろ姿は、物語と感動を伝えてくれるようだ。

この絶妙なカメラアングルとシャッターチャンスは、スマホで適当に撮ったとは到底思えない。 この「絵」が素敵だと思った娘の心が光っている。

 

どちらの写真も、「さぁ撮るぞ」と構えたものではない。

ポシェットからスマホを取り出し、すっと構えて撮った一枚だというところに、私の驚きがある。

彼女はスマホを構える前に、既に心の中に一枚の絵を描いていたのだ。

 

写真を撮る技術や道具ではなく、

母親としての子どもへの深い愛が開かせた、「カメラマンとしての心と目」。

それを娘が自然に持っていることが、私はとても嬉しい。


私には、写真撮影に関してひとつの信念がある。

素晴らしい写真を生むうえで最も大切なのは、

被写体でも、道具でも、技術でもない。

撮影者の「心」と「目」である。

 

「素晴らしい写真」とは、所詮芸術の世界の話だ。

評価はさまざまで、答えはひとつではない。

私の感動も、あくまで主観的な感性に基づくものにすぎない。

 

しかし、その感性が血を分けた娘にしっかりと伝わっていたことを、私は誇りに思う。

そしてこれからも、たくさんのナイスショットで「みてね!」を飾ってくれることを願っている。

 

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