創造という生き方

世の中は人の手で創られたもので満ちている。

それは草木のように自然に生えてきたものではなく、過去の人々が自分の感性と知恵を活かして創造したものだ。

 

それらを便利に使わせてもらい、楽しく遊ばせてもらう生き方はできる。 お金さえあれば大概のものは手に入るし、過去の創造物を骨までしゃぶることも可能だ。 そしてそうやって人生をまっとうすることもできる。

 

人々は生きる中で無意識のうちに、「創り出す側になるのか、利用させてもらう側になるのか」を選択している。


この構図の一番分かりやすい例が、コンピューター・ゲームである。

1970年代に業務用ゲーム機で登場した「スペースインベーダー」で爆発的に広まり、1980年代には家庭のテレビに接続して使用するファミコン(ファミリー・コンピューター)が誕生した。 「ドラゴンクエスト」など数々のソフトROMカートリッジを挿入して楽しむスタイルが確立したのもこの頃だ。

 

その後、数々の変遷を経て、現在ではインターネットに接続して楽しむオンラインゲームや、ソフトをダウンロードしてパソコンで楽しむゲームなど、インターネットが前提のスタイルが主流となっている。

 

私は一切ゲームはやらないが、プレイしている人の横からその様子を覗くと、そのゲームを開発した人の素晴らしさに圧倒される。 特に、ゲームの世代進化の先端を走った開発者には心から脱帽する。

 

世の中では、幼稚園児から大人まで多くの人々がゲームに熱中し、夢中になっている。 極端に言えば、一人の開発者が何億人という世界の人々を遊びに熱中させている。 それこそが「創造」の成せる業なのだ。


私がこれまで生きてきた人生の行動を一つの言葉で表すとしたら、それは「創造」である。

 

創造とは、無から新しいものを生み出すことであり、それを可能にするのは感性と知恵である。

 

しかし、創作は決して芸術家や博士や技術開発者だけのものではない。

創造は、必ずしも大上段に構えた立派なものである必要もない。 難しいとは限らないし、身の周りには創造の材料がいくらでも転がっている。

 

「感性と知恵」は特別なものではなく、誰もが持ち合わせている。

ただ、それを自分の引き出しから取り出そうとするか、触れようとしないのか ―― その「生き方の姿勢」が創造の本質である。

「自分にしか作れないものを作る」、「自分にしかできないことをする」という姿勢の結果なのだ。

 

私は幼少の頃から、人がまだやってないことにしか興味を持たなかった。 「人と同じことをする」のが嫌いだったのだ。 それ以上の理由はなかった。 別に目立ちたかったわけではない。 おそらく「自分が導き出したものが一番愛せる」という価値観があったのだと思う。

 

青春時代にアメリカに憧れたのも、アマチュア無線で毎日アメリカの局と英会話に熱中したのも、あの時代にアメリカへ渡り交信した人を訪ねて一ヶ月の旅をしたのも、他の人は誰もやっていなかったからだ。

 

帰国後、アメリカで見たキャンピングカーに刺激を受け、ワゴン車を改造してキャンピングカーを作ったのも、日本ではまだ誰もやっていなかったからである。

 

アマチュア無線では、「無線電波を使った情報ネットワーク・システムを、短波帯を使って海外のネットワークと接続する」という初めての試みに挑戦し、これを成功させた。

さらにメーカー製の高性能な無線機が簡単に手に入るようになり、半田ごてすら握れないアマチュア無線家が増えていく現状に対し、私はすべての無線装置を一から自分で製作することも成し遂げた。

 

天体観測室を自分の創意工夫で建てたことも、冷却CCDと「大気の揺らぎを抑え込むガイド補正装置」を組み合わせた撮影システムを天体望遠鏡に接続し、当時の日本ではほとんど未知であった先進的な方式で遠方銀河の撮影に夢中になったことも、いずれもクリエイティブな世界への挑戦だった。

 

脱サラ後の個人事業では「長期タイムラプス遠隔撮影システム」を開発し、唯一無二のシステムとして歴史に小さな足跡を残すことができた。

 

そして、今こうやって日々エッセイを綴っていることも創造である。


創造は、感性と知恵を使って世の中に痕跡を残す行為である。

そして創造は、人間が人間であることの証明でもある。

私は、このことを深く確信している。

 

世の中には多様な生き方があるが、できる・できないにかかわらず、何かを創り出そうとする姿勢を大切に生きている人は、いつも輝いている。

 

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