深掘り『男はつらいよ』 ― 寅さん映画の神髄とは

 

1.はじめに

 

主に昭和の時代に制作されたこの映画は、過去のものとなりつつあり、昭和生まれの私には慣れ親しんできた物語であっても、今の若い人たちには馴染みが薄いだろう。

 

今の時代は不寛容であり、人間関係は希薄化し、平和で穏やかに生きていくのは簡単ではない。 こんな今だからこそ、人と人のつながりがいかに大切で温かい世界をつくるかを知ることに大きな意味がある。

 

いま、私は歳を重ね、静かに自分の歩みを振り返る時間が増えた。 そんな私にとって、寅さんはもはや映画の登場人物ではなく、人生の伴走者のような存在になっている。

 

寅さんは亡くなってしまったが、まだこの世にいる私は、この壮大な物語を世に伝えなければならないと強く思っている。

 

 

2.寅さんの魅力と男のロマン

 

『男はつらいよ』シリーズ全五十作を観終えたとき、私はひとりの人間の人生を見送ったような熱い気持ちになった。 そこには昭和という時代に生きた、自由と不自由のあいだを揺れながら歩いた男のロマンがあった。

 

なぜ何度も観ても飽きないのか。 筋書きならとっくに知っている。 話を追いたいから観るのではない。 そこで感動したいから観るのだ。 心を揺さぶられたいから観るのが、寅さん映画である。

 

この映画の魅力を改めて探ってみようと思い、二カ月ほどかけて全五十作を一気に通して観た。 もう何回目になるのかわからないが、全作品を数十回は繰り返し観ている。 そして観るたびに新しい発見がある。

 

長年この映画を観続けてきたが、歳をとっていく寅さんに歳をとっていく自分自身の姿を重ね、ますますこの映画が心の奥深くに入り込んでくる。 そして、自分が少しずつ晩年の寅さんに近づいているような気がしている。

 

寅さんは一見、自由に生きているように見えるが、同時に不自由でもある。 旅に出る自由と、定住できない不自由。 恋をする自由と、結ばれない不自由。 本当の自由とは何かを考えさせられる映画でもある。

 

人生を振り返る歳になった今、私は寅さんの生き方を見ながら、自分の人生の最後にやり残したものはないのか探っているのかもしれない。

 

寅さんの生き方を真似したいと思う男性は多くはないだろう。 しかし、あの不器用で、自由で、孤独で、どこか憎めない男を見て「男のロマン」を感じる人は少なくないはずだ。 その不器用な生きざまを見て、自分の生き方も「まんざら捨てたものじゃない」と安堵する男性もいるだろう。

 

彼は誰よりも人を傷つけまいとし、誰よりも自分の弱さを知っている。 その不器用さこそが、男のロマンの正体なのかもしれない。

 

映画の中では寅の生き方に惚れるマドンナが何人も登場するが、現実の女性にとっては理想の男性像とは言い難い。 それでも、家族愛や優しさ、人間の温かさをテーマにした人情ドラマとしての側面が、女性フアンを生んでいるのだと思う。

 

寅が旅する先はいつも風光明媚な地方の片田舎だ。 美しい昭和の日本の田舎風景が舞台だ。 その昭和の舞台を強く印象付けるのが、懐かしいSL(蒸気機関車)が煙と蒸気を噴き出して汽笛を鳴らしながらゆっくりと走る風景である。

 

この映画の中でSLが登場するのは第二十二作『噂の寅次郎』までだが、初期の作品では登場場面が多い。 特に第五作『望郷篇』では、D51(デコイチ)の釜焚きが重要な登場人物のひとりとなっており、運転台の中の場面や、転車台で方向転換する場面など、ノスタルジア溢れる風景がふんだんに盛り込まれている。 腹巻に雪駄履きの姿でD51の運転台に乗り込んだり、機関車の横で噴き出す蒸気に煽られたりするシーンは、力強く真っ黒な巨体との対比が鮮烈で、強く心に残る。

 

SLの音と迫力は、人生を切り開く決意と力強さを象徴している。 昭和のまだ貧しかった時代の夢と覚悟を肩になんとか生き抜いていこうとする寅の姿と重なる。

 

――寅さんの魅力とは、自由と不自由のあいだで揺れながら、それでも人を信じ愛し続ける温かい姿にある。 昭和という時代が生んだ最後の旅人である。

 

 

3.物語の始まりと、そこで描いているもの

 

人生から脱線した寅と、それを温かく迎えてくれる家族のあいだの愛の軌跡が描かれている

 

中学生のとき、校長先生を殴って退学となり家を飛び出した寅(渥美清)はテキ屋(露天商)になった。 それから二十五年後、三十八歳で柴又へ戻ってくる。 両親は亡くなっていたが、叔父夫婦と妹・さくら(倍賞千恵子)が待っていた。

 

そのとき、さくらは隣の印刷工場の工員・博との結婚に寅の同意を求めた。 翌年生まれたのが満男である。 ダメ男の寅を兄に持ったさくらは、心から兄を慕い大切にする。 その眼差しには兄弟愛を超えた母性にも似た深い慈しみがある。

 

歳を重ねていく寅、さくら、そして成長していく満男(吉岡秀隆、幼少時は中村はやと)。 三人の時間の流れの中で、さまざまな物語が紡がれていく。

 

いつまで経っても恋ばかりして、人生を決める決断のできない甲斐性のない寅。 そしてやがてそんな寅と甥の満男との間に育つ、惹かれ合い、信頼し合う感情の物語である。

 

第一作(1969年)から第四十八作(1995年)まで、二十六年間という一人の俳優の「現役期間」のすべてを捧げて作られた作品群である。(第四十九作は渥美清逝去の翌年に制作された「鎮魂篇」、第五十作は後年の特別篇)

 

人の一生を描いた作品はいくらでもある。 しかし、実際にひとりの俳優が一生をかけて、一人の役者の一生を描いた作品は他にない。

シリーズを繰り返し観ると、登場人物が若々しく輝いていたり、円熟味を増しえいたり、すっかり歳をとったり、もう姿を見せなくなった俳優がいたり、それが昨日から今日のことのように前後するから心が激しく揺さぶられる。

 

これが人生であり、人の一生なのだと、震えが抑えられない自分がいる。 このシリーズの凄さは、役者と俳優が一体になって人生をかけて描いた「大スペクタクル作品」だというところにある。 もう、こんな作品は二度と出てこないだろう。

 

―― 寅が、さくら、博、満男をはじめとする家族と愛し合い、支え合い、信頼し合う、その一生の姿を描いている

 

 

4.二つのラブロマンス

 

寅さんシリーズには、成熟と若さという対照的な二つの「未完の愛」が流れている。

 

寅とリリー ―― 成熟した大人の愛

毎作の物語は、寅の甲斐性の無い恋物語である。 その中で、特に際立つのが、四つの作品にわたって描かれる寅とリリー(浅丘ルリ子)だ。 すべてのマドンナの中で、寅を愛し、寅の面倒を最後まで見れる女はリリーだけと言える。 寅の良いところも悪いところも理解し、自分自身も結婚と離婚を何度か経験し、厳しい水商売の世界を生き抜いたリリーだからこそ、最後まで寅を愛せるのだろう。

 

気が強く喧嘩ばかりしているのに、いつも惹かれ合うふたり。 臆病で不器用なくせに「男の美学」にこだわる寅は、最後に心の恋人リリーと相思相愛を認め合い、結ばれる寸前までいく。 しかし、またしても寅が喧嘩をして立ち去り、余韻を残す結末となる。

 

成熟した大人の恋。すれ違いと一種の悟りを持った愛を描かれている。

 

満男と泉 ―― 若さと未来を信じる恋

第四十二作以降、物語の焦点は満男と高校時代の後輩・泉ちゃんとの、ほのかで爽やかなラブロマンスへと移っていく。 そして実質的な最終作である第四十八作で、ふたりの恋は頂点を迎える。

 

照れ屋で不器用な満男は、無理やり見合いをさせられた泉ちゃんの結婚式に飛び込み、式をぶち壊してしまう。 そのまま家出した満男を追って奄美諸島の小島まで向かった泉ちゃんは、満男に本心を問いただす。 ずっと求めていた満男の愛の言葉を聞きたかったのだ。 そこで満男は初めて愛を告白し、泉ちゃんの心を射止め、ふたりの心は結ばれる。

 

若さゆえの衝動と感情、未来を信じる愛の姿を描いている。

 

第五十作『お帰り寅さん』(特別編)では胸を締め付ける後日談が待っている。(後記参照)

 

―― 寅とリリーは「成熟した愛の未完」、満男と泉は「若さゆえの愛の未完」。 結婚と言う形には実らなかったが、それでも愛し合っている二つの永遠のロマンスがシリーズ全体の「余韻」を形づくっている。

 

 

5.作品を横断する壮大な物語

 

シリーズをまたがって流れていく大きなテーマを、渥美清が生涯をかけて演じた迫真の物語だ。

 

二カ月という短期間に集中して通し観をしたため、今まで以上に感じたことや新しい発見があった。 もっとも強く感じたのは、このシリーズ五十作は、単編の羅列ではなく、ひとつの壮大な物語として描かれているということだった。 

 

どの作品を観ても楽しく心に残るものがあるが、この映画の本当の素晴らしさは、四十八作すべてを通して観ときに初めてわかる。 全四十八作の中に流れる大きな物語のうねりである。 その流れがもうひとつの壮大な物語を形づくっている。

 

(1)伯父と甥のあいだの信頼と絆

甥の満男と伯父の寅とのあいだに強く結ばれる絆の物語だ。

 

美人に惚れては振られ、惚れられては逃げ、甲斐性のない出会いを繰り返し、皆に馬鹿にされる伯父だが、満男は成長するにつれ、やがて寅さんに惹かれ、尊敬し、頼る様になっていく。 やがて深い信頼感と絆で結ばれていく。 満男が成長するにつれ寅に惹かれ、憧れ、どこか寅に似てくるという「魂の親子」感が描かれている。

 

寅は満男に「自分の若い頃の影」を見る。 満男は寅に「自分を導いてくれる頼りがいのある大人」を見る。 駄目な寅だからこそ自分の駄目さを分かり、共感してくれると心を開いていたのかもしれない。

 

シリーズが進むにつれその関係は深まり、特に第四十二作『ぼくの伯父さん』以降の七つの作品で、その成長がひとつの中心的テーマとして扱われ、伯父・寅への思いが強まって行く様子が色濃く描かれている

 

 

(2)二十二年をまたぐ寅とリリー愛の軌跡

数多くのマドンナの中で、運命の糸に結ばれたように惹き合うふたりの物語だ。 リリー(浅丘ルリ子)は、以下の四つの作品に登場する。

 

① 第十一作 『寅次郎忘れな草』(1973年・四十五歳)北海道・知床

出会い。 リリーに「初恋の人」と言われるが、寅は怖くなって立ち去る。

 

② 第十五作 『寅次郎相合傘』(1975年・四十七歳)北海道・小樽

再会して喧嘩をするが、リリーは柴又に現れる。 リリーは寅に本気で結婚してもいいと言うが、寅はまた立ち去る。

 

③ 第二十五作 『寅次郎ハイビスカスの花』(1980年・五十二歳)沖縄

沖縄で一緒に暮し、その後柴又で再会。寅が初めて「所帯をもとう」と言うが、リリーは冗談と受けとめることしかできなかった。

 

④ 第四十八作 『寅次郎紅の花』(1995年・六十七歳)奄美大島・加計呂麻島

静かな島で一緒に暮らす。 喧嘩を繰り返しながらも結ばれる直前までいくが、最後は寅が喧嘩して出てき、シリーズは余韻を残して終わる。

 

寅はリリーと数か月暮らしたが、指一本触れていない。 それが寅だ。 この映画を観る限り、寅は「女」を知らないままこの世を去ったはずだ。 こういった浮世離れした設定が、また観る者を惹きつける材料にもなっている。

成就しない恋だからこそ、二人の愛は、時間を超えて永遠のものになったのかもしれない。

 

 

(3)俳優と役柄のシンクロ

 

俳優・渥美清と役柄・寅の人生をシンクロさせたドラマチックな物語だ。

 

寅さんの年齢は演じる渥美清の実年齢と同じに設定されている。 渥美清は1996年、68歳で肺がんによりこの世を去った。 最終作の第四十八作は亡くなる前年に撮影されたが、やつれた顔と、動きの少なさから、どれほど苦労して演じたかが伝わってくる。

 

俳優・渥美清が、自分の命の終わりを悟りながら、最後まで全身全霊で寅を演じた姿は、これがまさに最終作であることを痛切に示している。

 

シリーズ四十八作を最初から最後まで通して観ると、それがひとりの人間の壮大な人生物語であることを強く感じる。

渥美清は単に寅を演じたのではない。 寅として生き、寅として老い、寅として旅だった。

寅は本当は渥美清だったのではないか、渥美清は本当は寅だったのではないかとさえ思えてくる。

 

―― 人生をかけて渥美清が演じきったのは、永遠の恋人リリーとの愛の物語であり、自分を追いかける満男との信頼の物語であり、そして何より「寅として生きた自分自身の物語」だった。

 

 

6.「鎮魂篇」と特別編を加えて締めくくった全シリーズ

 

渥美清が亡くなっても、すぐにはシリーズは終わらなかった。

 

●渥美清の死後に作られた二作品

渥美清が亡くなったあと、二つの作品が作られた。 第四十九作と第五十作である。

 

第四十九作【特別編】『寅次郎ハイビスカスの花』は、渥美清の死の翌年に「鎮魂のため」に制作されたもので、社会人となった満男が第二十五作『寅次郎ハイビスカスの花』を回顧する内容となっている。

 

第五十作『お帰り寅さん』は、渥美清の死から二十三年後の2019年に制作され、その後の満男の姿が描かれている。 ハッピーエンドで結ばれたと思われた満男と泉は、実は結ばれていなかった。 満男も泉も別の配偶者と結婚していた。 満男の妻は六年前に病死し、学校通いの娘がいる。 泉はオランダ留学後現地の男性と結婚し、同じ位の歳の子どもがいた。

 

泉が仕事で来日したとき、満男と偶然再会し、かつての思いが蘇る。 家に戻る泉を成田まで見送りに行き、別れ際に満男は妻を亡くした事を伝える。 泉が気にすると思って黙っていたことを伝える。 泉は満男への思いを抑えきれなくなり、抱きしめて熱いキスを二度して「そんなあなたが好きよ」と言い残し、走りながら搭乗口へ去る。

 

男と女の間の物語には「あのときの判断は間違っていた」「それに気がつくのが遅かった」というような話は付き物だ。 それだけに、見逃してしまったものに気がついた時の心が受ける痛みは大きい。

『お帰り寅さん』はその痛みを静かに肯定してくれる物語だった。

人生には取り返しのつかない選択がある。しかし、その痛みを抱えたまま生きていくことを、映画はそっと認めてくれているように感じた。

 

胸を締め付けられる感動的なシーンで『男はつらいよ』は「鎮魂篇」・特別編を含めた全シリーズを完璧に締めくくった。

 

●山田洋次の世界観と昭和の温かさ

旧きよき昭和の時代を舞台に描かれたこの作品は、原作者であり監督でもある山田洋次の世界そのものである。 それは一言では言い表せない、奥深く繊細な感性の世界だ。 愛があふれ、奥ゆかしさがあり、未完で余韻をともなう世界。 人間の弱さと可笑しさ、そして尊さを信じている、温かな世界である。

 

私は山田監督の感性から、人生で初めて「未完の美しさ」というものを学んだ。 何事もやり過ぎて完成することにこだわってしまう私に、とても大切なことを教えてくれた。

 

そして、心から感服するのは、シリーズを貫く大きなうねり  ―― リリーとの恋物語や、満男との信頼関係の深まり ―― を、「後付け」ではなく、二十二年前から着実に育ててきたという点である。 山田監督の卓越した創作力と感性は、きっと誰にも真似することはできないだろうと確信している。

 

―― 山田洋次が生み育てた寅さんは、いつまでも私たちの心の中に生き続け、語り続けてくれるだろう。

 

 

7.さくらの存在と昭和の人間関係

 

主役を引き立てた陰の存在と時代があった。

 

●さくらという存在の大きさ

私が最初に寅さんを観た日の記憶はない。 そのくらい遠い昔だった。 最初に私の心を捉えたのは寅さんではなく、その寅を愛し、慕い、期待し、必死になって支える妹・さくらの姿だったと思う。 こんな美しい兄弟愛があるのだろうかと感激したのだ。

 

「おにいちゃん!おにいちゃん!」と呼ぶさくらがいたから、この作品は描けたのではないかと思う。 日本中を自由に旅して、さまざまな人たちに感動を与える寅は、道を踏み外したような生き方をしていても、それを支えるさくらがいたからこそ幸せに生きることができたのではないかと思う。

 

さくらの優しさは、昭和という時代がまだかろうじて持っていた「人が人を支える力」の象徴だった。

 

●昭和の人間関係が生んだ物語

今の時代に寅さんが生きていこうとしたらとても難しいだろう。 映画として描くことも難しい。 人と人が信じあい、愛し合っていた昭和の時代だから描けた物語だと思う。

 

子供は保育所に預けて共働きするのが普通となった今、親しい近所づきあいは難しく、「隣は何をする人ぞ」と言う世界になってしまった。 隣の小さな印刷工場のタコ社長が、いつの間にか壊れた垣根の「扉」を開けて、自分の家のように入って来て一緒にくつろぐ。 何かあれば柴又中の人が集まって大騒ぎをする。 迷惑を掛け合うことが許されていた、人と人が温かくつながっていた昭和の時代が、この物語の核心的舞台となっている。

 

―― さくらの優しさが昭和の温かさとともに美しく心に伝わってくる

 

 

8.おわりに

 

物語は終わっても、観る者の心の中にその余韻は生き続けるだろう。

 

●仁義の口上が心に残る

寅さんシリーズに一貫して流れるのは、テキ屋として生きる寅の仁義の世界のしきたりだ。 寅が口にする口上は、一つ二つではない。

 

「四谷、赤坂、麹町、ちゃらちゃら流れる御茶ノ水・・・」

「結構毛だらけ、猫灰だらけ・・・」

「大したもんだよ蛙の・・・」

ほかにもいくつもある。

こうした口上は、いつの間にか私の中に染み込み、日常会話でふと口をつい出てしまうことさえある。

 

そして、仁義の世界で最も大切な自己紹介の口上は、あまりにも我々の日常からかけ離れているだけに、強烈な印象を残す。

その最後を締めくくることば ―― 「以後見苦しき面体お見知りおかれまして、恐惶万端引き立って、よろしくお頼み申します」

この一節は耳にこびりつき、折に触れ思い出す。

 

●人間としての心を磨いてくれる世界に惹かれた

私は、若い頃は世の中を動かしているのは科学だと信じていた。 自然科学などの物質世界にばかり惹かれ、自分のことばかりに夢中になって生きて来た。 それが、気がつくと義理・人情・思いやりなど心の世界に惹かれるようになった。 人として生きるには物質より心がもっと大切なのだと気がついたのだ。 墓場まで持って行けない「物」よりか、どこまで持って行ける「心」を大切に考えるようになった。

 

人間は見た目は物質であるが、そこに宿るのは人間だけが持つ「心」だ。 その心を知り、豊かに磨いてくれる世界が私を捉えた。

 

●本当に寅さんは私の心の中で生きている

『男はつらいよ』を観はじめて、もう五十年近くになる。

何度も繰り返し観て、観る度に寅さんを好きになっていくうちに、少しずつ、少しずつ、いつの間にか私は寅さんに似てきたような気がする。

 

それは紛れもなく、満男が伯父さんに憧れたように、私も寅さんのどこかに憧れているからだ。

 

ダメ男の寅さんに似るなんて、普通なら一笑に付される話だろう。

だが私は少しも恥ずかしくない。 むしろ寅さんに似ていることを誇りに思う。

 

例えバカにされても、堂々と自分の生き方を貫いて生き切った寅さんは、それだけしか選択肢がなかったとしても、ひとりの矜持を守り抜いた男だった。

 

不器用でも、自分の誇りを手放さなかった男の姿だ。

私がもっとも感動し、共感するのは、その姿にほかならない。

 

●現代に響く寅さんの温かさ

今の時代、世界を見回しても、欲に振り回された指導者たちの醜い話が多い。 この歳になってますます混迷を深める世の中を見ていると、私は強烈に寅さんを観て救われたい気持ちになる。 寅さんはそんな温かさを持った人間だ。

 

寅さんを観るたびに、私は「優しく温かい心」がどれだけ世の中を明るく照らすのか、そしてそれがどれだけ大切なことなのかを改めて思い知る。

あの笑顔を思い出すだけで、今日を少し優しく生きられる。

 

寅さんは、私たちが忘れかけている「人を優しく思いやること」を、五十作をかけて静かに教えてくれた。

あの笑顔と声を思い出すだけで、今日を少し優しく生きられる。

そう思える映画に出会えたことが、私の人生の静かな幸福となった。

私はこれからも何度も寅さんに会いに行く。

 

コメントする