一見すると哲学とは縁のない娯楽映画『男はつらいよ』第24作を観ていたとき、柴又の帝釈天の御前様が法要の席の雑談でシェークスピアの言葉を引用する場面があった。
「生きている間は、ただの夢にすぎない」(Life is but a dream while we live.)とはシェークスピアの言葉だという。 この一節に私は強く惹かれた。 そこでシェークスピが作品の中で「夢」をどのように描いているかを調べてみたところ、夢に関する二つの言葉が目に留まった。
「天と地にはあなたの哲学で夢に見られる以上のものが存在している」(There are more things in heaven and earth than are dreamt of in your philosophy.)(ハムレット)
「私たちは夢で作られたようなもので、私たちの短い人生は眠りで終わる」(We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.)(テンペスト)
この三つの言葉を合わせると、シェークスピアが語る世界観が浮かび上がってくる。 すなわち、「この世は通念では捉えられきれない『眠りの世界』であり、私たちが現実だと思っているものは、その眠りの中で見ている夢にすぎない」と言う考え方である。
シェークスピアの言葉には、「人生は夢でできており、眠りから始まり眠りに終わる」という循環的な世界観がある。 私はそこに、自分自身の死生観と強く響き合うものを感じた。 もちろん、このような世界観を客観的に証明する手立てはない。 しかし、そう考えると多くのことが自然に説明ができるように思える。
私には以前から気にかけている問いがある。 「自分が死んだとき、その事実をどうやって認識できるのか」という答えの出ない疑問である。 私は常々、「死んだ瞬間に、どこかで何かの生物として生まれ変わる」と考えている。 ただし、その瞬間に前世の記憶は完全に失われる。 だから、いま生きているこの生は決して「最初の一度」ではなく、過去にも何らかの形で生を営んでいた可能性が高いのではないかと思う。
高校時代の友人に、「前世の記憶がある」と話す人物がいた。 彼はその断片的な記憶をよく語ってくれた。 もちろんすべてを覚えているわけではなく、いくつかの断片が残っているという話だった。 彼は独特の感性を持つ人物で、部屋のカーテンにピンク色を選んだり、飼い犬を無性に可愛がったり、とても個性的だった。 私はアマチュア無線を通じて彼と毎日のように話していたので、私は彼の話を単なる作り話として片づけることができなかった。 私の世界観、とりわけ死生観は、彼と言う存在から大きな影響を受けていると思う。
これは仏教でいう「輪廻転生」に近いのではないかと感じている。 「転生」はともかく、「輪廻」という生命の循環は、シェークスピアが語る「眠りから夢を見てはまた眠りに戻る」という繰り返しと、どこか通じるものがあるように思う。
仏教が浸透している我が国にも、同じような世界観を描いた作家はいないのかと調べて見たところ、すぐに見つかった。 夏目漱石である。 彼は「人生は夢の連続であり、死もまた夢の一部」という、驚くほど似た世界観を持っていた。
漱石が生涯抱え続けたテーマを夢という形式で凝縮した作品が『夢十夜』である。 すべてを十分に理解できたとは言えないが、「死は境界の向こう側にある静けさ」「時は循環する」「消えゆくものへの執着がこの世を作っている」といった彼の世界観のエッセンスに触れることができた。
私は、僭越ながらシェークスピアと夏目漱石という偉大な作家と同じような世界観を持っていることを知り、感慨深くもあり、どこか恥ずかしくもあった。
この世界がどんな夢を見せてくれるとしても、それが繰り返し現れる眠りの中の幻にすぎないのなら、あとは静かにその流れに身を任せていけばいいのだと思った。