全力疾走で走り抜けてきた時代が終わると、人は不思議と染みったれたことを考えるようになる。 柄にもなく立ち止まり、「生きるとは何か」などと理屈っぽい問いに向き合ってしまう。 同じ歳、あるいはもっと年上の人が、理屈などこねずに今も第一線で活躍している姿を見ると、本当に眩しい。
私は昔から生命力は強い方だと思ってきた。 しかし、若い頃のやりたい放題や不摂生がたたったのか、あるいは神様のお怒りに触れたのか、「頑張る爺さん」としての現役からは、どうやら脱落したようだ。
歳を取ると、人は少し哲学的になる。 最近よく考えるのは、「人はなぜ生きたいと思うのだろう」という問いだ。 「なぜ生きるのか」ではない。 生きることが与えられたものだとしても、なぜその後、必死に「生きたい」と願うのか。
慣れ親しんだ世界から永遠に立ち去ることが寂しいのか。 愛すべき人たちと別れるのが悲しいのか。 それとも、死そのものや死後の世界が怖いのか。
理由は分からない。 それでも我々は必死で生きようとする。
一方で、生きる希望を失いかけている人もいるし、肉体的な苦痛や疲労から、生きたいと思えない人もいる。 それでも、ほとんどの人は「死にたくない」「生きたい」と願う。 太古の昔から人は不老長寿を求め、噂の食べ物や健康サプリ、秘密の方法にすがり、延命に余念がない。 中には、生きること自体が生きる目的になっているような人さえいる。
歳をとり、現役から退くと、社会のお荷物になったような気がする。 自分はもう「人間としての有効範囲」、いわば賞味期限を過ぎた「おまけの時間」を生きているのではないかと考えてしまう。
では、人間として有効期限を超えて生きる意味はどれほどあるのか。 あるとすれば、それはどんな意味なのか。 そもそも、人はその期限内に何かを成しえたのか。 何を成さなければならなかったのか。
今、私がこうして文章を書いていることに、どれほどの意味があるのだろう。 あと幾らも経たずにこの世を去るのだとしたら、こんなことをしていていいのか。 私はこの期に及んで、いったい何をしたくて、何をしているのだろう。
疑問は尽きない。 そして答えは見つからない。
愛すべき親たちや先輩たちは、もうすべて旅立ってしまった。 かつて目の前にあった光景が、すべて夢だったかのように感じられる。 子どもたちの世代が今や世界の真ん中で生き生きと人生劇場を演じている。 過去は夢のように消え、自分の足跡もまるでなかったかのように忘れ去られていく。 生きていたこととは何だったのか。 答えの出ない問いに、また戻ってしまう。
「生老病死」という言葉がある。 仏教ではこれを四苦とし、人間の根源的な苦しみだと説く。 生まれる場所や条件を選べないこと、必ず老いること、病にかかること、そして死に至ること。 仏教を紐解くと、学べることは多い。
調べてみると、この四苦に加えてさらに四つの苦があり、合わせて八苦というらしい。
愛別離苦(あいべつりく)──愛する人ともいつかは別れなければならない苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)──大嫌いな人とも出会ってしまう苦しみ。
求不得苦(ぐふとっく)──求めるものが得られない苦しみ。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)──自分の心や身体すら思い通りにならない苦しみ。
「四苦八苦」という日常語はここから来ていたと知り、なるほどと思った。 生きることの根底には苦しみがあるのだと、改めて考えさせられる。
これほど多くの苦を抱えるのが「生きる」ということだと仏教は説く。 それなのに、人は生きたいと願う。 だから答えが出ないのだ。 生きることは苦であり、辛いことである。 それでも生きたいと思う。 そこにこそ、人間が生に対して抱える矛盾の根幹がある。
結局、私の問いに答えは出ない。