私の家の近隣には、歩いて行ける範囲に、散歩のついでに週に一度は手を合わせに立ち寄る神社が七か所、寺が二か所、地蔵尊が二か所ある。 最近になって、あることに気がついた。 寺や地蔵尊の前にも賽銭箱や鈴があるのだ。 以前から賽銭箱が置いてある場所では、必ず十円を入れていたのだが、ぶら下がっている鈴を鳴らすようになったのはごく最近の事だった。
ある時妻が鳴らそうとしたのだが、うまく音が出なかった。 そこで太い紐をぐっと上に持ち上げてから前後に揺らすと、紐のくねる動きが上に伝わって鈴がよく鳴る事を教えた。 それ以来、どこへ行っても「練習」と称して必ず鳴らすようになった。
そんな出来事があってから、今まで深く考えなかったことに関心を寄せるようになった。 神社では賽銭を入れて「二礼二拍手一礼」をする。 特に手を合わせて「パン・パン」と叩く所作は目立ち、特徴的だ。 ある日、寺で賽銭箱があったので賽銭を入れたところ、妻が手を叩いた。 私は思わず「ここは神社じゃない!」と注意し、その瞬間に気づいたのだ。
寺に賽銭箱や鈴があるだけでなく、以前、調布市の深大寺の山門前で立派な鳥居を見たことがあった。 調べて見ると、逆に仏像を祀っている神社もあるらしい。 よく耳にする「神仏習合」とは、二つの宗教が混ざり合って存在するという、日本独特の文化であり、神と仏が調和し体系的に結びついた状態を指す。
日頃こうした世界に触れることの少ない私は、その後、道端の小さな小屋に鎮座する地蔵尊の前に立ち、ふと考え込んだ。 お寺ではなく道端にあるため、一瞬「道祖神」という言葉が頭をよぎり、神道の世界かと思った。 鈴もあるし賽銭箱もあり、横にワンカップのお神酒までが供えてある。
しかし良く見ると、線香立てが置かれ、その横には線香の束とマッチの箱が丁寧に備えられている。 これは仏の世界ではないか。 手を叩いてよいのか一瞬迷ったが、「地蔵菩薩」と言う言葉がある以上、間違いなく仏教の領域だと気づいた。 ここでは手を叩いてはいけないのだ。
神道は日本独自の宗教で、日本以外ではほとんど信仰されてはいない。 インド・中国経由で伝来した仏教とは対照的である。
仏教だけでなく、私は海外でキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、道教を見てきたが、それらには必ず本尊や信仰の中心になる存在が、概念か像として示されていた。 神道にはそれがない。 山や岩、木などの自然物や鏡、剣などの神器に宿るものが神とされる。 特に仏教と比較すると、本尊としての像があるかないかという点は明確な違いだ。
神仏習合は興味深いが、やはり神道は「所作・儀礼」を重んじ、仏教は「形式」を重んじる。 それぞれの作法はきちんと守らないと、どこか恥ずかしい。 ただ、神仏習合の入り混じった日本の風景を歩いていると、その曖昧さがどこか自然で、むしろ心地よく感じられることもある。
日本の宗教のあり方は、歴史の中で一度大きく形を変えている。 明治以降、国家は天皇中心の神道儀礼を整え、天皇を「現人神」とする思想が広まった。 その仕組みは戦時下で強い力を持ち、最後には特攻隊員が「天皇陛下、万歳!」と叫んで散って行く悲劇へとつながった。
日本人にとっては痛ましい記憶だが、傷を負った側の心には、いまも消えない痛みが残っている。
ただ幸いな事に、現在の海外の一般層では、神道は概ね好意的に受け止められている。 その背景には、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』『千と千尋の神隠し』『もののけ姫』など、多くのジブリ作品の存在がある。 作品が描いた自然観や精霊の世界が、宗教というより「美しい生き方」として広く伝わったことが大きいのだろう。
神でも仏でもなく、散歩の途中で手を合わせるその一瞬は、ただ静かさが心に染みる。 所作の違いに迷いながらも、胸の奥のどこかがゆっくりと整っていく。
神仏習合の入り混じった日本の風景の中で、境界は次第に薄れていく。 鳥居も、地蔵も、ただそこに現れたひとつの形に過ぎない。
立ち止まって手を合わせると、張りつめていたものがそっと緩んでいく。 音もなく、輪郭がやわらいでいく。 それだけでいいと思った。