自分の儀式を生きる

私はとにかく「儀式」が嫌いだ。 若い頃はそれほどでもなかったが、徹底的に嫌悪の対象へと変わったのは自分の結婚式がきっかけだった。

 

都内の式場で、そこそこ立派な結婚式だった。 しかし普段は堂々として押しが強く、物おじしない私が、なぜか分からないがすっかり上がってしまい、終始「固まったまま」ニコニコしていただけだったらしい。

 

来賓の挨拶も友人の余興もまったく耳に入らなかった。 妻の高校時代の女友達数人が、当時流行っていた『てんとう虫のサンバ』を合唱して「照れてる あなたに 虫達が、口づけせよと はやしたて・・・」の部分で盛り上げ、私たちに「チュ!」をさせようとしたのだが、それすら聞こえなかった。 彼女たちは仕方なくその部分を何度も繰り返し、妻が私に催促して、やっと私は事態を飲み込んだ。

 

普段は気の小さい妻はまったく普通で、終始笑みを浮かべながら、目の前に出される料理もすべて食べたらしい。 しかし私は最初から最後まで料理を食べた記憶がなく、口にしたのは乾杯の時のグラス一杯のビールだけだった。 終わった時に喉はカラカラだった。 車に乗って式場を後にした瞬間、一気に緊張から解放され、正気に戻った気がした。

 

自分があんな様子になるとは思っても見なかったので、本当に驚いた。 あの結婚式以来、私はとにかく「儀式」が嫌いになった。 式次第は万人が同じ流れで、派手で「取ってつけたような」演出が続き、堅苦しい決まり文句の挨拶が並ぶ。 私はなぜか分からないが、譲りがたい違和感を覚え、少なくとも主体的な立場で二度とそんな場に立ちたくなかった。

 

世の中の多くの人々は、子どもの結婚式を人生最高のイベントとして盛大に祝うのを楽しみにしていると思うが、私はまったくこだわりがなかった。 両家代表謝辞など考えただけで憂鬱になる。 子どもたちが特に望むなら仕方ないと考えていたが、結局、娘は夫婦だけで山梨県の大きなヒマワリ畑で結婚衣装を着て記念写真を撮って終わりにし、息子は海外勤務からの一時帰国のタイミングで、職場だけのささやかなパーティで済ませた。 それぞれの相手の両親もそれを受け入れてくれて助かった。

 

私は特に気が小さいわけではなく、むしろ何があってもひるむことのない自信家であったにもかかわらず、なぜあれほど嫌悪したのか、自分では説明がつかなかった。

 

あれから45年経つが、他に似たような経験をしたことは一度もない。 むしろ私の生き方は、いつも「儀式」に惹かれ、無視できず、大切にしている。 

 

最近の私は、自由な時間の中で好きなように生きているので、自分と言う人間がよく表れている。 気がついてみると、毎日の生活は私が決めた「儀式」に満ちている。 七つの神社と二つの寺と二つの地蔵をめぐる散歩。 散歩の途中で浴びる朝陽に向かって必ず唱える、朝陽のパワーへの賛辞。 帰宅して窓を開け、朝陽に向かいながら飲むコーヒー。 自分に立ち向かうために毎日欠かさず書く文章。 さまざまな「儀式」の中に身を置いている。

 

だんだん、かつて抱いた儀式への違和感の理由が分かってきた。 私が嫌ったのは「儀式そのもの」ではなく、「自分が主体にされる儀式」だったのだ。 他者が作った自分の魂が納得していない台本の中で「主役にされる」ことに、身体が拒否反応を示したのだと思う。 大切な自分の物語を他者に描かれること、つまり、自分の物語を誰もが知っている既知の内容として演出され語られることが、受け入れ難かったのだ。

 

今、私の周りを包むさまざまな儀式は、すべて自分が選び、育て、深めてきたものだ。 「儀式を愛する人」だが、「儀式に支配されること」を嫌う私は、派手な演出や決まり文句とは無縁である。 私が求めているのは、静かに自分と向き合う、自分のための儀式なのだ。

 

価値ある儀式とは、誰かが作った台本ではなく、自分の心が生み出すものだ。 そこに身を置くとき、自分の内なる声に触れ、内側にあった緊張が静かにゆるみ、本来の自分の姿に戻ることができる。

 

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