私は歴史や文学は苦手科目であったのに、なぜか「平家物語」の冒頭の全文だけは忘れられず、今でもそらんじている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。」
この中の「諸行無常」と「盛者必衰」の二つの語は、私の人生のさまざまな局面で思い起こされてきた言葉だった。 「すべてのものは変化し、永遠なものはない」「栄えたものは必ずいつか衰える」という意味だが、一言でいえば「人の世には絶対というものはない」ことを語っている。
俗な人間である私が最もそれを感じるのは、美人女優の変遷である。 かつて「これ以上に可愛くて美人はいない」と憧れた某女優も、80代となった今は皺だらけのお婆さんである。 大変失礼ではあるが、とても同じ人だとは思えない。 そして同時に、私が見ていたもの、感じていたものは単なる「虚像」であったことを思い知らされる。
そもそも自分自身がそうである。 アルバムを開いて二十代のころの自分の写真を見ると、我ながら「うっとり」してしまう。 本当にこんな時があったのだろうかと、命あるものに課せられた「無情」を感じてしまう。
あらためて周りを見渡してみると、変わらないものは岩や山など生命の宿らないものだけのように見える。 しかし、その岩や山でさえ永遠ではない。 厳密に言えば、50億年後には地球に生命を誕生させた太陽は赤色巨星と言う恒星末期の膨張した姿になり、地球は飲み込まれると考えられている。 実は宇宙自体刻一刻と姿を変えているのだ。 やはり万物は「無常」であり、絶えず変化している。
一人の人間が生きているタイムスパンは、宇宙の時計からみたらほんの一瞬の点滅に過ぎない。 その一瞬に一生のすべてをかけて生きている人間は、その一瞬の中のさらに一瞬を不変と感じ、見える虚像に心を奪われ、搔き乱され、翻弄されている。
すべてが永遠ではないからこそ、人との出逢いは一度きりの奇跡になる。 二度と同じ形では訪れない瞬間だからこそ、深く胸に刻まれる。 若い頃の思い出が遠い過去のものになり、その姿を二度と確かめることができなくなっても、胸の奥にだけはそのまま残っている。
「無常」は「無情」だと儚さで胸がいっぱいになったとき、私は世の中に唯一変わらない存在があることに気がついた。 実像のない、人間が考え出した概念としての「神と仏」である。 世の中がどのように変化しようとも「神様と仏様」は常にそこにいて変わらない、不動・不変の存在だ。 人々は、いつもそこに行けば必ず会える存在と心を通わせて、儚さから生まれる心の隙間を埋めようとして、そして救われる。
私が朝ごとに順番に訪れる七つの神社と二つの寺、そして二つの地蔵。 その巡礼のような日常は、変わりゆく世界の中で、唯一変わらない存在である神や仏に触れ、変わりゆく自分をそっと見つめる時間になっている。
「無常」は「無情」ではなく、風のように人生を優しく撫でて彩ってくれているもののようだ。