馬車馬は、止まり方を知らない

「時間がない」。 私は昔から、いつもそう感じながら生きてきた。 遊ぶ時間さえなかった。 「時間がない」とは、時間が足りないということだ。 時間が足りないということは、やり残しがあるということだ。

 

だから私は、いつも一心不乱にならざるを得なかった。 どうせ全部はやり切れないと知っている。 それでも、なりふり構わず没頭するしかなかった。 そうやって、どの時代も走り抜けてきた。

 

では、なぜ時間が足りないのか。 やらなければならないことは世間並で限られている。 問題は、やりたいことが多すぎるのだ。 興味を持つ対象が多すぎるのだ。

 

小学二年生の孫が家に来ると、家中を歩き回りながら、「これなに」「これどうするの」「自分の家のより小さい」「これおかしい」と、次々に興味を示す。 この時期に、親が面倒がらずに一つひとつ応えてあげれば、きっとその子の才能は伸びるのだろう。 だが、こうした旺盛な興味は、成長とともに自然と収まっていくものだ。

 

私は、それが収まらなかったのだと思う。 正確には、全体としては落ち着いたが、目の前のものに興味を持つ基本的な傾向だけは残った。 いつも何かに疑問を抱き、何かに熱中していないと物足りない。

 

興味とは、時に厄介なものだ。 ひとつの疑問が解けると、次の疑問が顔を出す。 調べれば調べるほど、世界は広がり、終わりが見えなくなる。 だが、その果てしなさこそが、私にとっての「生きている実感」でもあった。 興味が尽きることは、世界が色を失うことと同じだった。

 

冬の寒い朝、車のエンジンは温まるまで走り出せない。 私の頭も同じで、興味の火がついていれば、いつでもすぐに走り出せる。 だから本能的に、エンジンを止めたくないのかもしれない。

 

私はよく自分を「馬車馬」に例える。 両目の外側を覆われ、脇目も振らず、ただ前だけを見て走り続ける馬。 走ることで安心しているのかもしれない。 止まるのは、人生の最期の時が来たときだ。

 

古希を過ぎ、仕事も引退したというのに、じっとしていられない。 これが馬車馬の悲しい性分だ。 だが、走り続けることが苦しいわけではない。 むしろ、止まってしまうことの方が、私にはよほどつらい。 静止は安らぎではなく、空白であり、空白は不安を呼ぶ。

 

年齢を重ねるほど、走る速度は落ちた。 しかし、速度が落ちたからこそ見える景色もある。 若い頃には気づかなかった細部や、道端の小さな光に目が留まるようになった。 走り続けることは、単なる習慣ではなく、世界とつながり続けるための私なりの方法なのだ。

 

今も昔も、私はいつも時間がない。 眠れば、一刻も早く目覚めて起きたい。 夜中に目が覚めて、まだ朝が来ていないとがっかりする。 起きて、また走りたいのだ。

 

蹄鉄はとっくにすり減って用をなさない。 それでも私は、大地の感触を直に感じながら、走ろうとしている。 悲しい馬車馬の一生。 だが、走り続けることでしか見えない景色が、確かにある。

 

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