私は「趣味」ということばに、どこか抵抗を感じている。 本来やるべきものから外れた「生産性のない娯楽」という響きがあり、どうにも馴染めない。
「世の中でどのように定義されているのか」と思い、ネット検索や辞書、各種AIで調べてみた。
そこには「単に好きだからやる」「個人的に楽しむもの」「生活や仕事とは別」「義務ではない」「成果や評価、他人からの承認とは無関係」「やらなくても困らない」「報酬や評価が目的ではない」などと書かれていた。
やはり娯楽としての位置づけが基本線として貫かれている。 しかし、その中にあった次の二つの定義には、私はどうしても容認し難い気持ちになった。 ひとつは「『役に立つから』ではなく『やりたいからやる』もの」。 そしてもうひとつは「人生の効率とは無関係な、心の余白をつくる行為」である。
私にとって趣味は常に人生その物だった。 趣味のために生き、趣味の為に働き、趣味が生きがいだった。 趣味とは、人生の「目的」を形にする行為である。 それが「娯楽」という枠で定義をされることに、憤懣やるかたない失望を覚えた。
それは、「自分の人生を軽く扱われた」と言う感覚に等しい。
「仕事こそが人間の本源的な役割と存在理由であり、価値尺度である。趣味はその『おまけ』で、余暇という『余り』の時間でするもの」という前提が社会に根強くあるように思える。
人を語るとき、「どんな職業で何をしている」ばかりに焦点があたることにも、強い違和感がある。 職業と地位が人間の価値を決定づけるとは、どうしても思えない。 そんな価値観だからこそ、小学生の頃から始まる人生レースは、常に「就職」を目指すものになってしまう。 就職後は「出世」が成功の尺度とされ、それを目指す人、そう見なす人であふれている。 私にはとてもそうは思えない。
良い職業に就き、華々しく出世し、地位と高い報酬を手にしたとしても、それは決してその人間の価値を測る尺度にはなり得ない。 実際、そのような中には、自分の地位に慢心し、人としての魅力を感じさせない者も少なくない。 その世界では高く評価されていても、一人の人間として見たら、生きている世界は狭く、幅や奥行きがなく、「薄っぺらさ」を覚えてしまう。 高い地位や報酬が、「自分を肯定している世界中心の物の見方」を増長し、むしろ自分の視野を狭めていることに気がつかなくなるのだ。
社会の中で人間が受ける評価も、人間が持つ生きる目的も、いつの間にか金と地位を手に入れられる仕事になってしまった。 大昔から、金のある人間が高い地位を手に入れ、高い地位の人間が金を手に入れ、それが歪んだ価値観を作ってしまった。
だが人々は人生経験の中で、その価値観が歪んだものであることに気づかされる機会に必ず遭遇しているはずだ。 人間の価値はもっと深いところにあることに気づかされる。 それはその人間がいかに広い視野を持って幅広く奥行きのある人生を経験してきたかにかかっている。 私は今までの人生で出逢った「素晴らしい」と感じた人たちを思い起こすたびに、その思いを新たにする。
さて、私は自分自身の価値観をつくり育てる事にこだわって生きてきた。 それで立派な成果を残せたとは思えないが、人に胸を張れる生き方はしてこられたと思っている。
私は常に趣味を「生きる軸」として大切にしてきた。 小学生の時から科学に関心を持ち、天体観測を始めた。 中学生では音楽の素晴らしさを知り、仲間とヴァイオリンを弾き、ブラスバンド部の活動にも参加した。
高校進学とともに始めたアマチュア無線は、アメリカ人と会話し、海の向こうの憧れの世界を知りたかったからだった。 その趣味は大学卒業時のアメリカ旅行を実現させ、その後も私の世界を広げ続けた。
就職直後に夢中になったキャンピングカーの自作は、新しいライフスタイルを体験し、未知の何かを学びたかったからである。
会社の仕事を通して、スペインを始めアジアの国々で六か国語を学び、未知の文化に振れ、自分と言う人間の血と肉を育てていった。
還暦までアマチュア無線と並行して続けた天体観測は、自分が「地球人」を超えて、大宇宙の中での広い視野を持つための価値観を育てる入り口だった。
音楽は、感性を磨き、仲間と響き合うための場だった。
アマチュア無線は、世界とつながるための通信手段だった。
キャンピングカーの自作は、新しい生き方を探る試みだった。
言語学習は、異文化を血肉に変えるための旅だった。
天体観測は、宇宙的視野を育てるための入り口だった。
これらは「余暇の娯楽」ではなく、私が世界をどう見たいか、どう生きたいかを形にする行為だった。 これらの趣味の積み重ねによって形づくられた人間が、いまの私である。 趣味は、「いまの私」という物語の主役をつくってきたのだ。
趣味にはいつも人生の目的があった。 決して娯楽ではなかった。 実際、仕事の為に趣味を犠牲にした記憶はほとんどない。 それに対して趣味の為に犠牲となった仕事上のパフォーマンスは、いくらでもあった。
趣味は人生の余白ではなく核である。
趣味は人生の余興ではなく本編である。
趣味は娯楽ではなく、個性を創造する世界である。
趣味は評価や報酬の対象外にあるからこそ、真の輝きを生み出せる活動である。
誰にも測られないからこそ、そこには真の輪郭が描かれてきたのだと思う。 それは、自分が生きてきた唯一無二の足跡を残す行為そのものだった。
「趣味」という語は私の人生の重さに耐えられない。 私がやってきたことは、生きるための探究であり、世界との対話であり、自己創造の営みだった。 それを「趣味」と呼ぶのは、あまりにも軽い。
私は今、自分の人生を正しく表す言葉を探している。