「残そうとして歩いた時間」そのものが私の人生

人はいつか死に、そしていつか忘れ去られる。 それでも私は、この世に何かしらの「形」を残したいと思っている。 それは名誉でも評価でもなく、ただ「生きていた」という微かな痕跡のようなものだ。

 

形とは、必ずしも目に見えて重さもある「物質」だけを指すものではない。 誰かの心に残る言葉や価値観、自分の記憶、描いた絵画、撮った写真や動画、書いた文章などもまた確かな形だ。

 

例えば私のタイムラプス作品を偶然見かけた見知らぬ誰かが、その美しさに息を呑む瞬間があったとしたら、その一瞬、私の足跡はその人の心の中にそっと移り住みことになる。 それは現代における「形」のもっとも純粋な姿なのかもしれない。 その一瞬のために、私はカメラを向け、時間を削り、作品を創ってきたのだと思う。

 

しかし、歴史に名を残す偉人でない限り、物質として残らない形は、やがて忘れられ、消えて行く運命にある。

 

私の父は経済学者で、晩年に書き上げた、関税政策に関する著作集などは、日本の関税政策史を語る上で欠かせない研究資料となっている。 それは専門書として研究者の手元や図書館などに長く残り続けるだろう。

 

一方で私は、父のような立派な血を引いたとは到底思えない「突然変異体」で、残せるものは限られている。

 

私がタイムラプス・フォトグラファーとして制作したタイムラプス作品も、書き続けているエッセイも、物質としての形を持たない以上、いずれは消えて行く運命だ。 それでも、私はそれらを「自分の形」として大切にしている。

誰かに評価されるかどうかではなく、自分が生きてきた証として。 

 

だからこそ、私は自分がこの世を去った後のことを考えている。 仕事では有料高画質動画サイトのVimeoを使って来たが、私がこの世を去れば年間費用の引き落としは止まり、サービスは終了する。 つまり私の作品は世の中から消えてしまう。 その事実に気づいたとき、私の胸の奥で小さな焦りが始まった。 なんとかしなければと考える様になった。

 

そこで1年ほど前からYouTubeへ作品を移始めた。 YouTubeに掲載した動画は基本的には無期限に残る。 とりあえず、私の足跡はそこに留まる。 もちろん、プラットフォームの未来がどうなるかは誰にも分からない。 それでも、それが唯一考えられる方法だ。

 

書いたエッセイも、noteの仕組み上、同じように無期限で残る。 これもまた、私の足跡の一部だ。

 

私は、世の中に「残すこと」執拗にこだわっている。 決して著名人として名を残したい訳ではない。 人からどう評価されるかも問題ではない。 ただ、自分の生きざまがどこかにそっと残っていてほしいだけなのだ。 例え誰かに悪く思われようと、低く評価されようと、私は自分の足跡を残した。 その説明しがたい気持ちこそが、私という人間そのものなのだ。

 

タイムラプス作品がYouTubeに残り、言葉、価値観や記憶がnoteに残る。  それは現代のIT技術のおかげであり、私はこの時代に生きられたことを心から幸せに思う。

 

残るかどうかは分からない。 それでも、残そうとして歩いた時間そのものが、私の人生の形だ。 消えるかもしれない。 それでも私は、今日もまた一つ、足跡を刻んでいる。

 

その足跡は、誰の目に触れなくても、確かに私が生きた証としてそこにある。そして、その一歩一歩が、私自身を形づくってきた。 だから私は、明日もまた静かに歩き続ける。 消えることを恐れず、ただ自分の足跡を残すために。

 

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