自然科学への不信から始まった人文科学への旅

は若い頃から哲学、歴史、文学と言った人文科学系の世界にはすべて興味がなかった。 興味があったのは物理、化学、地学、生物と言った自然科学系の世界だった。 世の中を発展させる技術に無限の可能性を感じていた。 それに対して人文科学はどれを取ってもあまり役に立たない理屈の世界だと思っていた。

 

ところが、この歳になって、何時の間にかその人文科学の世界を観る眼が変わって来た。 人文科学はどの分野も、人間が人間たる姿を浮き彫りにし、それがどんな変遷を辿って来たか、その上でどう考えたらいいのか、矛盾や分からないことだらけの生命その物の正体に少しでも近づこうとする世界だった。

 

私が人生を生きて来て、仕事から足を洗い、自分が歩いて来た道を振り返る日々が続くうちに、知らず知らずと「人間と言う存在」について深く考えるようになっていた。 人が歩んで来た歴史を知って、自分一人の限られたものに留まらず多くの人が歩んで来た過去を学びたいと思い始めた。

 

そして人と言う物はどんな生き方や感情の持ち方をするのか、それを多様なストーリーの上から学び取れる文学の世界の魅力と力にも気が付き始めた。

 

そしてそれら人間の思考その物を深く掘り下げて考える事のできる哲学にも関心を持ち、いつの間にか頭の中で「哲学」をこね回して思い悩やむ様になっている自分に気が付いた。

 

そして驚く事に、いつの間にか自分はそう言う世界に惹かれ、最先端技術であるAIを敵に回していた。 昔だったら誰よりも真っ先に飛びついて、率先してその活用法や可能性に迫り、自分の人生のツールにしようと夢中になっていたはずだ。

 

敵に回していると言っても駆逐しようとしている訳ではない。 便利な事はずるく活用させてもらっている。 事実、この技術は革命だと思い、そのお陰で今まで大変だった事がいとも簡単に解決したり、作業出来たり、実現できたり、その働きを十二分に享受させてもらっている。

 

ただ、付き合ってはいるけれど、決して心は許していないのだ。 いつも油断しながら、振り回されないように、頼り切らないように、ごまかされないように、魂を抜かれないように気を付けながら接している。

  

あんなに自然科学人間だった自分を思い出すと、とても懐かしい気持ちになる。 科学(自然科学)が全てを解決し、世の中を発展させ、地球人類を平和にする最強のツールだとしてもてはやされていたし、自分もそれを寸分も疑わなかった。 学生時代から天文と電気・電子の世界に憑りつかれ、趣味として学校の勉強すらおろそかにして熱中した。

 

あれから60年経ち、今の自分が歩んで来た道だけでなく、世の中の諸情勢を見渡すと、科学(自然科学)万能の考えは正しかったとは言い切れない。 少なくとも「万能」と言う表現は正しくなかった。

 

結局この科学(自然科学)漬けの世界が行きついた所は、地球規模の公害・環境破壊と、核兵器を振り回した世界大戦争も厭わない人間社会の暴走だった。 また医学の発展は人間の寿命を延ばし難病からも救ったが、遺伝子操作に始まる自然界では起こり得ない人間の倫理観に触れる問題をたくさん引き起こしている。

 

更に人類は地球上に放置できない有害廃棄物を宇宙に廃棄するとか、月や火星に基地を作って将来は移住する事まで視野に入れている。 これが本当に実現するのか、その為に払うコストや犠牲に見合うのか。 地球上の人間社会だけでなく宇宙まで地球人類の都合で変えようとしている事は本当に許される事なのか。 疑問はどこまでも尽きない。

 

こう言った問題が、今の私の幻滅感と嫌悪感を呼び起こす原因となっている。科学(自然科学)への信頼を失ったのだ。 そして、それが私を人文科学の世界を振り向く様にさせた原因だ。

 

科学(自然科学)は常に非常識の上に生まれて来た。 だから今の非常識は将来の常識となって人々に重宝される事になるかもしれない。 そうならば余計に人間はその進歩と新常識に合わせられるように、倫理観も道徳観も価値観も適応させて行かねばならない。 少なくとも私は大上段に構えて「哲学」とは行かなくても、私にとっては新しい未知の領域で見識を深めて行きたい。

 

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