科学の領域は未踏のものだらけだ。 学術の世界はその存在自体が真実追及への挑戦だ。 これで終わりと言う物がなく、真実の追及は永遠に続く。 人間世界での最大の挑戦は、この学術の世界である事は間違いない。 研究に没頭し人類の為に素晴らしい成果を上げている人は沢山いる。 そういう人の中からノーベル賞受賞者も出る。 「世の中の為」に挑戦を続けて来た人への称賛だ。
一方、世の中には「自分の為」に挑戦をするが沢山いる。 人によって程度に差はあるかもしれないが、誰にも「何かに挑戦したい」と言う気持ちは心のどこかに本能として存在している。
一番分かり易くその姿勢が端緒に現れているのが、難しい山峰を目指すアルピニストであろう。 世界の最高峰エベレストを制覇するだけでなく、世界に14座ある8,000メートル級の高峰を次々に制覇したり、あえて無酸素(酸素ボンベ無し)登頂したり、スピード登頂記録を作ったり、あえて難ルートでの登頂を果たしたりと、登山に於けるあらゆる人間の可能性に挑戦した歴史が残っている。
未だに前人未踏の山は残っている。 宗教上の聖地で入山が禁止されている山を除いても技術的に難しい山も残っている。 おそらくこれからも挑戦は続くだろう。 これは自分との闘いだ。
仕事に挑戦する人も多い。 私はその時の職務が自分の波長と合う物だった時には仕事自体には夢中になって燃えたが、挑戦する事はなかった。 つまり、その仕事での未踏の分野まで実績を伸ばしてやろうと言う意気込みや目標を掲げた事はなかった。 しかし私の息子は明らかに挑戦をしている。 東南アジアを統括する職務を任され、明けても暮れても土日もなくノートPCでメールを打ちまくっている。
父親と正反対で趣味は全くない。 仕事以外は土日の45分間の筋トレだけだ。 それも筋肉マンになると「仕事のパフォーマンスが上がる」からだそうだ。 彼が自分の会社で前人未踏の領域に挑戦しているのは明らかだ。 直接目指しているのは会社の為であるが、彼にとって最終的な目的は自己実現にあると思っている。 その為の自分との闘いだ。
私も常に自分の為に挑戦すると言う本能に突き動かされて生きて来た。 私の場合はその対象は仕事ではなく趣味だった。 学生時代からいくつかの趣味に心血を注いで生きて来た。 そんなものに注がなくて、学業に注がなければいけない時期も、社会人になって仕事に心血を注がなくてはいけなくなっても、私の挑戦の舞台は常に趣味の世界にあった。
片手の数では足りないほど夢中になった趣味があって、そのそれぞれの世界で、常に前人未踏の何かを目指した。 自分が未踏の高峰を踏む事への挑戦だった。 高峰に到達してそこで居心地を楽しみたかった訳ではなく、何かを成し遂げたら、その後はそっと何処かに去ってしまっても未練は残らない。 今思っても、明らかに求めていたのは自分への挑戦その物であった。
何が自分をそんなに駆り立てたのかと考えると「達成感を得たかった」からだと思う。 それでは何に達成感を感じたのか振り返ってみると、ある世界で「誰も達成していない亊」ではなく「誰も発想していない事」を手にする事だったと思う。 だから例え「良くできました」と評価される事があったとしても、それだけでは満足はできなかった。 私にとっても挑戦は自分との闘いであった。
自分との闘いとは、その価値は自分が決めると言う事だ。 他人が見てその価値を認めてくれたとしても、それは目的ではない。 闘っている事自体に価値があってその人が生きて来た意味がある。 まさにその人の足跡である。
私はどんな事でもその人が選んだ世界で必死に自分と闘っている姿を見ると美しいと感銘する。 その本当の価値の意味が私には分からなくても、自分と闘っている生き様を見るとそれ自体にとても胸を打たれる。 その人が損得勘定なしに「人間を生きている」と感じる。