医者の一言「加齢です!」が鼓舞した物

今月の主治医の定期健診の日がやって来た。 お腹の不調で処方された薬を飲んでもイマイチ効果が思わしくない。 その主治医には3年ほど前からお世話になっているが、その当初からの処方で心臓や血圧の為の幾つかの薬を毎日服用している。 思い起こすとその薬を服用するようになった以前にはそんなお腹の不調はなかったので、これはもしかしたら処方されている薬の常用と関係があるのではないかと考え、尋ねてみようと思いながら満を持して訪問した。

 

お医者様はおそるおそる尋ねた私に対し、きっぱりと即答した。「加齢です!」

 

藪から棒にいきなりビンタを喰らったみたいで、言葉が出なかった。 いつもは丁寧に優しく説明してくれるその先生が、その日はまるで切り捨てるようにそう言ったのである。 せめて「お歳のせいですね」位の優しい言い方はなかったのか。 いつもは天使の様に優しい先生が、その日は鬼に見えた。

 

帰宅後、以前介護の仕事をしていた妻に聞くと、高齢者が「お歳のせいです」と言われるのはあたり前で、例はいくらでもあるそうだ。 それはそうだ、歳をとればどんな健康な人でも最後は老衰で亡くなるのだから、老衰に近づく加齢の段階で徐々に正常な機能が失われて行くのは当然だ。

 

と言う事はカウント・ダウンが始まったと言う事ではないか。 それも聞き捨てならないがその通りなのだろう。 しかし、あからさまに目の前にストップウォッチをかざして「はいっ、10歳経過! 順調に進んでますっ!」と言われるのはあまりにも赤裸々すぎる。

 

転んでもただでは起きない私としては、加齢と言われて一笑に付す事はできない。 そこまで言われるのならば、加齢しているからこそ出来る事はないだろうかと考えることにした。 禍を転じて福と為すのである。

 

自分に十分な体力と運動機能が備わっていた時は、何をやっても身体がしっかりついてくるので、益々夢中になる。 そんな時、人により程度の差はあると思うが、周りの人へ気を配ったり、社会の事を考えたり、自分が直接関わっている人達への配慮はつい後回しになりがちだ。

 

私はその最たるもので、自分のやりたい事、目指している事以外は目に入らなかった。 決して無視していた訳ではないのだ。 目に入らなかったのだ。

 

しかし、加齢と共にまず体力が落ちて来る。 基礎体力だけでなく、腕力も握力も脚力など、全ての筋力が落ち、運動機能が低下して来る。 心肺機能も低下して来るから猶更だ。 物理的な力だけでなく、視力の低下も進んで行く。

 

恐らく多くの人が私と同じように70歳を境に体力の衰えを感じ始めるのではないかと思う。 古希(古稀)とは良く言ったものである。 ここからは恵まれた稀な人達の年代なのだ。

 

そうやって体力が衰えて来ると、不思議と自分の足元が見えて来る。 そして周りの大切な人達に目が届き始め、次には自分が生きて来てお世話になっている社会、とりわけ地域社会に目が届くようになる。 そうなると自然に地域社会の為に何かしようと思う気持ちになって来る。 もちろん私がそうだった。

 

歳をとって隠居して暇だから暇つぶしでやるのではない。 歳をとらないと見えない物があったからやる気持ちになったのだ。 それは若い人には理解できないかもしれない。 でもそれでいいのだ。 自分も若い時には理解できなかった。

 

これが、ボランティアを志す高齢者が多い理由であろう。 加齢と言う言葉は私にとってだんだん「慈悲」と言う仏の心を映した言葉と重なって来た。 私には加齢しなければ見えなかった世界だ。 棺桶が近づいて来たからこそ見える物、感じる物があり、だからこそ出来る事がある。 必ず何かあるはずだ。

 

幸い私は私なりに取り敢えず小さな事を始めている。 毎朝のゴミ拾いだ。 1時間半かけて7千歩も歩けば、レジ袋2つがパンパンになる。 当初は街の美化の為に役に立つのならと思って始めたのだが、毎日やっているうちにいつの間にか「ゴミを捨てたくなる人の気持ちを受け止めてあげて、いつかその人達が気づく時までそっと面倒を見てあげる」と言う気持ちに変わってしまった。 むかし、自分が同じような事を平気でやっていた恥ずかしい過去があるからこその気持ちだ。

 

これは取り敢えずの手始めだ。 加齢と言われたからには、堂々とその言葉を受け止めて、加齢したからこそ出来る物をもっと探してやろうと、燃えて来た。 これで明日からまた元気一杯胸をときめかせて生きて行く事が出来そうだ。

 

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