空白の高度

自分の才能はもう枯れてしまったのか――。

ここのところ、創作の高度が低く、ずっと低空飛行が続いている。今日も地上すれすれで、機体の腹を民家の屋根に擦りそうな感覚のまま、座席ベルトを締め直し、覚悟を決めて操縦桿を握りしめている。

 

こうした状態は、これまでにも何度か経験してきた。そのたびに、どこからか救いの風が吹き、機体がふわりと舞い上がる。上昇気流に乗り、雲に届くのではないかと思うほど勢いを取り戻すこともあった。それが、私の日々のエッセイ執筆である。

 

もともと空を飛べるような身体ではなかった。私は長らく、地上突進型の重量級戦車として生きてきた。キャタピラーで踏み慣らしてきた大地の跡を、いつしか俯瞰したくなった ―― それが、空へ向かう試みの始まりだった。

 

私が書いているものは、日記でも文学作品でも分析記事でもない。私流に言えば「体験から生まれる人生哲学」に近い。

始めは重たかった足取りも、人生の終活を始めてからは、思いが湧き水のように溢れ出し、その湧き上がる感情を素直に拾い上げて言葉にすることが、執筆そのものになっていった。

 

しかし、湧き水にも脈動がある。均一な力で湧き続けるわけではなく、自分の思考がどの「モード」で過去を探索しているかによって、流れは変わる。そして私は、その流れに自然に身を任せることができない。

 

ある物事に取り組むと、中途半端にすることができず、猪突猛進するのが私のスタイルだ。一度緊張の糸を緩めると奈落の底まで落ちていくような気がして、必死になって走り続けるという、不幸な几帳面さが、私に操縦桿を握りしめさせている。


―― 才能は枯れてしまったのか。

歴代の芸術家が悩む話はよく聞く。しかし、才能を使わずに生きてきた人は、そもそも「枯れる」という感覚を持たないらしい。才能を使い切った人は、次の才能が芽を出すまでの間、必ず「空白」を経験するという。その空白は、才能の死ではなく、再生のための沈黙だ。

 

図書館で立ち読みした本に書かれていたこの考え方を知ってから、私は気持ちが少し楽になった。「才能」そのものよりも、「次の芽が出るまで空白がある」という視点が救いになったのだ。空白は無意味ではない。そう思えたとき、私は自らを責めることなく、堂々と立ち止まれるようになった。

 

湧き水をたたえた表層の地層も、いつかは乾く。しかし、その下の深層が動き始めれば、より澄んだ水が必ず地表に湧き出す。無理に毎日書き続ける必要はない。湧き上がるまで二、三日待てばいい。新聞の連載記事を書いていて、編集者に尻を叩かれている有名作家ではないのだから。


いつまでも飛行できるとは思っていない。私にはある目標があって、あと半年間だけは操縦桿を握りしめて空を飛んでいたいのだ。

キャタピラーを休ませるのもいい。ここらで戦車の足回りを整備して、最後の悠然とした走行に備えたい。

 

「今のところは」無事故だ。しかし、明日は事切れるかもしれない ――。

そう思い始めて、もう何ヶ月も経つ。

 

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