私はヴァイオリン、妻はピアノを弾いている。どちらも初心者の域を出ないまま、長年つづけてきた。楽しみで弾いているだけなので本来どうでもいいことなのだが、あまりの成長のなさに、くじけそうになることもある。
とくに妻の執着心には、長年連れ添った私ですら驚かされている。もともと彼女は、物事に根気よく没頭するタイプではなかった。何をやっても「ざっくりと」で満足してきた人だ。それなのに、ここ数年のピアノへの情熱は本当に脱帽するほどで、暇さえあれば朝から晩まで練習をしている。まるで陸上競技のインターバル走法のように、弾いては休み、休んでは弾く。その反復を延々と続けている。
「いくら練習しても少しもうまくならない」とこぼしながら、なぜあれほど続けられるのか。私はここ数年で本当に妻を見直した。
あんな人ではなかった。
一方、私のヴァイオリンは、子どものときに少し習った記憶を頼りに、自己流で弾いているだけだ。
しかし、良い音を出すことすら難しいあの楽器は、子どもの時に基本からきちんと積み上げていなければどうにもならない。
特に自分は左手のネックの持ち方が正しくなく、親指と人差し指の根元で挟み込んでしまうため、ポジション移動も自由にできない。楽器の支え方にも影響が出てしまっている。
つまり、もう今さらどうにもならないのである。
一度つけてしまった間違った癖を直すのは容易ではない。それも歳をとってしまってからでは不可能に近い。
ましてや加齢で右手の指が不自由になりつつあり、今やなんとか弾けるだけでもありがたいと思わなければならない感じだ。
凝り性の私も、これだけは観念している。
だから私としては珍しく、基本的に「うまく弾けたらラッキー、駄目で元々」という柔らかな思いで弾いている。
それに対して、妻は駄目な自分を許せず、粘り強く研鑽を続けている。
そのひたむきな姿は、傍で見ていて胸を打つほどだ。
手伝えるものなら手伝ってあげたいと思う。
そんな妻の姿は、この歳になって初めて見るからである。
四十数年間、遊びも仕事も中途半端では終わらせなかった私の姿が、ついに彼女を衝き動かしたのかもしれない。
妻は昔からの友人である同年輩の主婦に月に一度習いに通っている。音大ピアノ科卒のその主婦は、長年、歌や楽器演奏の発表会の伴奏を務めてきた人だ。
いつも妻に「辛抱よ。辛抱よ。それが私がピアノ人生で学んだこと。」と言いながら、結婚後にエレクトーンを少し習っただけの実質初心者である妻を、挫折させないように優しく指導してくれている。毎日スケジュールで一杯なのに、月一回の一日を捻り出してくれている。
そんな指導者に恵まれているとは、なかなかない幸運だ。
ベテランの奏者だからこそ、妻の経験や年齢を考え、最適な指導をしてくれている。今さら無理に基本に引き戻すことが最良ではないと熟知しているのがよくわかる。
家で練習をしている妻の姿を横で見ていて、練習の仕方がまどろっこしく感じることが多いのだが、それはそのまま私自身に返ってくる言葉でもある。
私が見ていて一番心苦しいのは、妻がまったく楽譜を見ていないことだ。暗譜をしているから楽譜を見る必要がないのではなく、彼女は指と鍵盤を終始食い入るように見つめて弾いている。つまり目で運指を覚えて弾いているのである。
新しい曲を覚える時だけ楽譜にかかれた音符を辿り、指を動かすが、それは運指を知るためだ。練習を始めるときは、必ず楽譜を前に広げるのに、最初から最後までその楽譜を見ている様子はない。
彼女は元々音楽の素養があったわけでもなく、ピアノも基礎から学んだわけではないので、楽譜から音程をひとつひとつ読み取ることはできても、歌を歌うときの歌詞カードのようには使えないのだ。
先日、彼女の楽譜を私の譜面台に立てかけ、彼女がいつも弾いている曲をヴァイオリンで弾いてみた。もちろん下手ではあるが、とりあえずつかえずに音は出せる。
彼女は目を丸くしていた。
「私が三年間毎日練習してやっとなんとか弾けるようになったものを、あなたは初見で弾いた」と、やや愕然とした様子だった。
私はいつも「楽譜を見て」と言ってきたのだが、彼女はそのとき初めて「楽譜を見れること」の意味に触れたのかもしれない。
彼女がそれでも必死になって指と鍵盤だけを見ながら弾いている姿を見ていると、私の記憶の底に沈んでいたある情景がゆっくりと浮かび上がってきた。
家庭を顧みずに勝手に生きる夫に翻弄される日々、周りには目もくれず、手元だけを見て、「これでもか、これでもか」と自分のできることにすべてを尽くしてきた姿。それは私たちの結婚生活そのものだった。
そんな愚直さがあったからこそ、今があるのだと気がついた。
そんな彼女が、今は幸せそうに同じことに自分から立ち向かっている姿を見ていると、そのメロディーが心に奥深く染みてくる。
その音は、ただの旋律ではなく、長い歳月が少しずつ磨いてきた私たちの生活の手触りそのもののようで、耳を澄ますたびにどこか懐かしい風が通り抜けていく。