期待し過ぎた私が悪かった ―― 偶像が剥がれ落ちるとき

アメリカに私が勝手に抱いた「偶像」

 

青春期の私は、アメリカという国に強い憧れを抱いていた。

私はアメリカを「自由と正義の純粋な体現者」として捉えていた。

自由、開拓精神、民主主義 ―― それらは私にとって眩しく、未来を照らす灯のように思えた。私のエッセイには何度も「青春時代に追いかけたアメリカへの憧れ」が登場するが、それは単なる興味ではなく、人生を支えるエネルギーそのものだった。

 

しかし近年、その憧れは次々と否定され、打ち砕かれた。失意と混乱の中で、私はその矛先を、先頭を切って平和とはほど遠い行為と言動を繰り返すトランプ大統領に向けていた。テレビに彼の顔が映るだけでチャンネルを変えたくなり、常にリモコンを手元に置くようになった。

 

彼の言動に呆れ、幻滅する人は少なくないだろう。

しかし、彼は世襲でも暴力でもなく、民主主義の選挙で選ばれた。その事実に私は何度も首をかしげた。

ニュースが、アメリカ国内でも彼に反発する人々が抗議活動を続けていることに触れるたび、私が憧れた国の精神はまだ生きているのだと胸を撫で下ろした。

 

そんな折、アメリカ独立二百五十周年を機に、改めてアメリカ史を大きな流れとして振り返る資料を読む機会があった。そこで私は、自分が抱いていた「美しいアメリカ史」が、実際の歴史研究が示す複雑さとは大きく異なることを知った。

独立後の数多くの戦争と侵略行為など、独立戦争から領土拡張に至るまで、暴力や強引な政策が織り込まれた歴史が横たわっていた。

 

もちろん、そのひとつひとつは知識として知らなかったわけではない。しかし、私は今までそういう側面を正面から見ようとはしてこなかったことに気がついた。憧れた一面の姿に惹かれるあまり、自分の視界の中から完全に排除していたのだ。

 

その瞬間、私は悟った。アメリカに失望をし、大統領に嫌悪感まで抱いたのは、私がものごとを一面的に理想化してしまった、長い間の私自身の思い込みが招いた結果だったのだ。


期待し過ぎることが招く失望

 

私は小さい頃から、気に入ったものがあると熱を上げて夢中になる性分だった。「熱しやすく、冷めやすい」と母にもよく言われた。

良い一面を見ると、その対象が持つすべての側面まで肯定的に見えてしまう。まだ知らないはずの側面までも、美しく整っていると期待してしまうのだ。

 

相手が人間であれば、それは負担だっただろう。そう言えば若い頃、愛を告白した彼女に、「わたしのことを買いかぶり過ぎよ」と言われたことがある。今思えば、私の期待が相手を縛ろうとしていたのだ。

 

アメリカへの憧れも同じだった。私はその国の一側面だけを見て、残りの側面まで美化し、すべてを預けていいと勝手に決めてしまった。

まさに「恋は盲目」だった。好きになった瞬間、欠点が見えなくなるあの状態だ。

 

万事において、多少冷めた目を持ち、事実と感情を分けて観察する姿勢があれば、どのような結果であっても冷静に受け止められたはずだ。

しかし私は、期待し過ぎる性格ゆえに、自ら失望を招いていた。

 

古希を過ぎた今ごろになってようやく気づいたところで、今さら人生が劇的に変わるわけではない。 しかし、長いあいだ偶像崇拝の呪縛の中にいた私にとって、その呪縛が死ぬ前にようやく解けた意義は決して小さくない。

 

失望したくなければ、過度に期待しないことだ。

そして、対象を美化せずに、知らない側面まで勝手に整っていると思い込まず、自分の価値観を相手に投影しないことだ。

 

期待はしばしば、対象ではなく自分自身が作り出す幻影だ。

その幻影が濃いほど、剥がれ落ちたときの痛みは深い。

 

私はようやく、その単純な原理にたどり着いた。

遅すぎるということはなかった。

 

今は、とても穏やかな気持ちになれている。

 

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