絶対に戻ることができない、一方通行の道があり、その道の両側にはさまざまな果物の木が生えている。 実をつけた木もたくさんある。 その道では、木になっている果実をひとつだけ採って食べてよいことになっている。 ひとつだけだ。
前へ進んでいくと、まだ青くて食べられない果実もある。 さらに歩き続けると、美味しそうな果実にいくつも出会う。 たったひとつしか食べられないのだから、できるだけ美味しい果実を選びたい。 贅沢を言わずに、さっき見つけた果実を選んでおけばよかったかもしれない。 しかし道はまだまだ続いている。 焦る必要はない。
やがて前方に色鮮やかで見るからにおいしそうな果実が現れた。 私がその前を通りかかったその瞬間、その果実はまるで私を誘うように、甘く芳しい香りを放った。 もう私は我慢できなかった。 私は「この果実でいい」と思い、その実を摘んだ。 目の前にはまだ延々と道が続いていたが、それでもこの実を選んで後悔しないと思えた。
若い頃から何度も考えてきたことがある。 「人は本当に世界で一番のパートナーと出逢えているのだろうか」という問いである。 今の時代、多くのカップルは恋愛結婚で結ばれている。 多くの場合、人生で出逢った中で「最高の人」だと感じて、パートナーとして生きることを決断したのだろう。
しかし、この「最高の人」とは、「その時までに出逢った中で」という条件付きの言葉である。 日本人だけでも結婚適齢期の相手は数百万人いるのだから、自分の選択は、ある意味では「妥協の産物」と言われてしまうのかもしれない。
頭では「世界で一番の相手」を望んで探していても、人間の感情は数学や物理の数式で動いているわけではない。
目の前にとても美味しそうなものがあったら、それがとてつもなく魅力的に見えたら、世のすべてを試さなくても「これを食べよう」と決意するだろう。 そもそも一番美味しい物を手に入れる必要などない。 第一、本当に美味しいかどうかは、ゆっくりと時間をかけて味わって見ないと分からない。
大切なことは、決意した後である。 男と女というものは、若いときは情熱がほとんどを支配している。 それはとても素敵な感情で、一生忘れない素晴らしい若いときの思い出を残してくれる。 しかし逆に言えば、それはいつまでも続くものではない。 本当の「勝負」は、熱い情熱が過ぎ去ったあとから始まる。 情熱が消えた後には、ひと山もふた山もやって来る。 中にはそこで終わってしまう関係もある。 そうしたすべて含めて「出逢い」なのだと思う。
終わらない関係は、いくつもの荒波や危機を乗り越えても終わらない。 それどころか、最後は強い絆で結ばれる。 結局、その出逢いが最高であったかどうかは、人生のこの歳になって初めて分かるのだ。
私は家庭をおざなりにして、外で好き放題に羽を伸ばして生きて来た、とんでもない男だ。 妻が妻でなければとっくに私のもとを去っていたに違いない。 なぜ彼女が離れなかったのか、今では昔を振り返って話すこともあるが、それは決して「夫である私が魅力的だったから」ではなさそうだ。 何度聞いても胸を打たれるのは、「あなたを選んだのは私なんだから、私自身のために歯を食いしばって頑張ってきた」という言葉だ。
つながらない人は、どうやってもつながらない。 つながる人はどんな大きな山を乗り越えてもつながるものだ。 男と女の関係は、最初からすべてがぴったり合っているとは限らない。 どこか合わないところがあってもいい。 最後に歯車がぴったりと嚙み合う人こそ、が最高のパートナーなのだ。 答えがわかるのは、最後になってからである。