就職して初めて配属された職場で、隣の課の上司がこんなことを言った。 「他人の幸せは自分の不幸、他人の不幸は自分の幸せだよ」 当時は「なんと大胆なことを言うのだろう」と驚いたが、年月を重ねるうちに、その言葉の半分には確かに真実があると感じるようになった。 「幸か不幸か」という判断は、多くの場合、他人との比較の中で生まれてくるからだ。
どんなに厳しい暮らしをしていても、さらに過酷な状況にある人から見れば、それは幸せに映るかもしれない。 日常の中で私たちは、気づかぬうちに「他人との比較」を繰り返し、その結果として「幸・不幸」を感じている。 そこに絶対的な基準はない。
さらに、何を幸せと感じるかは人によってまったく違う。 その状況が、かつて自分が選んだ結果として望んだものなのか、意図せず訪れたものなのかによっても、心の受け止め方は大きく変わってしまう。
私がこのことをよく考えるのは、子どもや孫の存在についてである。
子どもは可愛いし、人生の大きな部分を占める。 特に母となる女性にとって、子どもを産み育てた経験は、肉体的にも精神的にも「それがすべてだった」と語る人がいるほど大きい。 夫婦にとっても、歳を重ねたときに未来を託せる子供が「いる・いない」の差は、決して小さくない。
そして孫となると、愛おしさはさらに深まる。 抱きしめていると、「生きていてよかった」と心の底から思えてしまう。 その瞬間だけは、過去の苦労が静かに消えていく。 私も可愛い孫たちに囲まれて、どれだけ言葉にならないほどの幸せをもらっているか分からない。
しかし、すべての人が子どもに恵まれるわけではなく、当然ながら孫にも恵まれるわけではない。 そもそも結婚を選ばない人も増えている。 自ら独身を選んだ人は別としても、結婚しても子宝に恵まれるとは限らず、孫を持てるかどうかも分からない。 希望しても叶わなかった人の口惜しさを思えば、孫の話を人前で過度に語ることには、どうしても躊躇が生まれる。
従妹の一人には、息子が二人いるがどちらも結婚の気配がないという。 時折交わすラインのメッセージには多くを語らずとも、結婚も孫も望めない状況への寂しさが滲んでいる。
また、私が日常的に接している親しい男友達三人は、生涯独身を貫いている。 彼らが伴侶を持たず、子供も孫もいないことをどう感じているのか、本心は分からない。 過去は変えられないと分かっているからこそ、その気持ちを尋ねることもできない。
しかし、自分に向き合って人生を振り返る時間が増えて来た最近、それは大変な思い上がりではないか考えるようになってきた。 自分が自分の幸せに有頂天になり、彼らが持っている「自分にはない幸せ」には目を向けようともせずに、勝手に自分の価値観で決めつけていたのではないかと思うようになったのだ。
持たない者が、持たないからこそ持っている「他の幸せ」は、持っている者には陰に隠れて見にくい。 私は彼らに大変「失礼」な考えを抱いていたと気がついた。 持っている者の論理でつい見てしまう自分が、恥ずかしく思えて来た。
幸せは比べるものではなく、それぞれが抱える物語の中で生まれるものだ。 持っているものも、持っていないものも、どちらもその人の物語を形づくる大切な要素である。 そしてその要素をどう受け取り、どう抱えて生きていくかは、他人ではなく、その人自身の静かな心に委ねられている。
幸せを持っている人は、それをそっと胸にしまい、持っていない人には、その人の見えない幸せに関心を寄せて謙虚に接する。 そんな日常のおだやかな姿勢こそが、人と人の理解を深めていくのだと思う。