一声かける勇気

日本人の文化にはある種の閉鎖的な側面がある。 特に、周囲の人とのちょっとした関わり方にそれが表れる。

 

毎朝、夫婦で散歩をしている。 左手にはレジ袋、右手にはトング。 一目でゴミ拾いをしているとわかる格好だ。 始めたばかりの頃は照れくさくて、人とすれ違うたびに道具を隠すように歩いていた。 だが最近は、そんな気恥ずかしさも消え、堂々と歩けるようになった。

 

すれ違う人の反応はさまざまだ。 ほとんどの人は知らん顔で通り過ぎるが、何かしら反応を示す人も少なくない。

 

歩いている地区の方からは、よく「ご苦労さまです」と声をかけられる。 そこの町内会のボランティアだと思われているのかもしれない。 特に、通学路で旗振りをしている年配の方々は、同じ目的を持つ「同志」のような連帯感があるのか、いつも威勢よく声をかけてくれる。

 

一度、忘れられない出来事があった。 歩道はないが中央分離帯のある交通量が多い道で、40代くらいの女性が原付バイクで乗って正面から走ってきた。 私たちの横に差しかかった瞬間、彼女はブレーキをかけ、片手でヘルメットのフェースカバーをぐっと上げ、首を横にふってこちらを見ながら「ごくろうさまです!」と大声で言い残し、また加速して走り去っていった。 あまりに予想外で、しばらく呆然としてしまった。

 

声をかけてくれる人は横断歩道の旗振りの方を除けば、ほとんどが女性で、しかも高齢者が多い。 だが時折、男性から声をかけられると、驚いてしまう。  一方で、学生や通勤途中の若者たちは、例外なくといっていいほど「無反応」を貫く。

 

狭い路地でのすれ違いでは、特に「日本人らしさ」が顔を出す。 お互いの「意識バロメーター」が一気に上がるのがわかるのに、どちらも視線をそらし、「じと~~~っ」と意識を殺したまま通り過ぎる。 だが、どちらかが勇気を出して「こんにちは」と声をかければ、待っていましたと言わんばかりに明るい挨拶が返ってくる。 まるで昔からの知り合いのように。 そんな瞬間に出会うと、「声をかけてよかったな」と心から思う。

 

心のシャッターに鍵はかかっていないのだ。

 

犬の散歩をしている人には、「かわいいですね~」とか犬に「わんわん!」と「話かけて」あげると、一気に紐を引いている飼い主の顔がほころぶ。 犬嫌いの人がいるんじゃないかとか、怖がるんじゃないかとか気にしている人も多いのだろう。

 

逆に相手に一本取られたと感じるケースもある。 それは男子高校生と思われる学生とすれ違った時だった。 まず100%挨拶はないケースだ。 ところがその若い学生は、「おはようございます!」と元気よく挨拶をしながらすれ違った。 心の準備が出来ていなかった私達は慌てて挨拶を返した。 心に浮かんだのはその子の育った家庭環境だった。 すばらしい環境で育てられたに違いないと思った。

 

小さな子供達にも一本取られたことがあった。 幼稚園児や小学校低学年の子供達が何人か一緒に歩いているのに出会った。 こんな小さい子供達は先生の前以外ではわざわざあいさつなんかしないだろうと思っていたら、みんながそろって挨拶をしてくれた。 大人として恥ずかしかった。

 

すべてはどちらかが声をかけてあげれば得られる幸せだ。 日本人はこういうことが本当に苦手だ。 海外で暮らしてみると、この日本人の特質に気がつく。 海外では挨拶するのにためらう人はいない。 これは損している。 なんとか克服して治したい文化だ。 不思議なのは、自分が海外にいれば彼らとおなじようにまったくためらいが無く声をかけられるのだ。

 

しかし何故か日本にいると同じようには振る舞えない。 今は海外で生活体験をする人が多いが、同じような経験を持つ人は少なくないだろう。

 

最初の一歩が踏み出せない。 それは、相手を思いやることを大切にするという日本の伝統文化のよい側面が、「不用意に踏み込んで失礼にならないか」「相手の邪魔ではないか」といった「過度な遠慮」を生んでいるのかもしれない。  「気の使い過ぎ」のような気がする。

 

しかし、過去に「出した勇気」が原因で恥をかいたり、悪い結果になったことは一度もない。

 

たった一声で、人の心はこんなにも動く。 それがわかっていても躊躇してしまう自分がいる。 「無視されてもいい」くらいの気持ちを持って、もっと勇気を出してみようと思う。 十中八九そこに相手も自分も幸せになれる宝物が埋まっているとわかっているのだから。

 

コメントする