「心のアルバム」に浮かぶ一番好きな姿

久しぶりのかつての同僚に年賀状を出したら、返事のはがきが送られてきた。 珍しい名字なので、ちらりと見ただけで彼からだと分かった。 しかしよく見ると名字に続けて書いてある名前が違い、しかも女性の名前だった。 ドキッとしてはがきを裏返して文面を見ると、「主人は○年前に他界しました」と綴られていた。

 

その瞬間、彼の顔がぱっと目に浮かんだ。 彼の姿を象徴するような優しいまなざしで、楽しくユーモアあふれる言葉を今にも口にしそうな、あの柔らかな表情が浮かんだ。 懐かしさが込み上げてきた。 その日は何度も彼を想い出したが、まぶたに浮かぶ彼の姿は同じだ。

 

彼とは4年近く同じ職場にいたし、仕事のあとによく酒を飲みに行っていたのに、記憶の中の彼は、まるで一枚の写真のように変わらない。 彼は屈託のない素直な性格で、いつも人を安心させるような一言をかけてくる人間だった。 だから写真の中の彼は、今にもこちらにホッとする一言を語りかけてくるように感じられる。

 

今まで余り意識したことはなかったのだが、親しかったたくさんいる友人の姿を想い出してみると、記憶の中には「その人を象徴する一瞬」が一枚の写真のように残っていることに気がついた。 懐かしい昔の彼女の姿も一枚の写真で残っている。 さまざまな場面を共に過ごしたはずなのに、心に浮かぶのは決まって同じ表情の姿だ。 意識して思い出そうとしない限り、その一枚以外は浮かんでこない。

 

記憶というものの不思議な仕組みに初めて気がついた。 長い時間を経てなお色褪せない一枚の写真が、心のアルバムの奥からふっと湧き出て来るような感覚だ。 複数のシーンを順番に再生する動画ではなく「その人らしさ」を最もよく捉えた一瞬だけが一枚の写真に残っている。

 

それはその人と過ごした時間を象徴する姿であり、その人間の本質を一番感じる一枚だ。 それは私がその人をどう理解し、どう愛していたかの証だとも言える。 おそらくその一枚は、私の心が選び取った「一番好きな姿」なのだ。 だから一緒にいた他の友人たちは、きっと異なる一枚を選び取って心の中にしまっているに違いない。

 

仏壇に飾った両親の遺影は、毎回手を合わせる度ににっこり笑ってやさしく語りかけてくれる。 今にも写真から飛び出して目の前に姿が現れそうな錯覚に陥る。 今、毎日書いているエッセイのリンクが紹介されるフェイスブックで「いいね」を押してくれている中学生時代の同級生は、毎回中学生当時の姿を想い出している。 フェイスブックの「友達」に載っている今の姿ではない。

 

人は相手の「すべて」を覚えているわけではない。 けれど、心は「一番好きな姿」の一枚に、想い出のすべてをそっと凝縮して保存する。 そしてその一枚は、時間が経つほど透明度を増して象徴性が強くなって行く。 だから久しぶりにその人を想い出すと、まるでアルバムの奥からふっと浮かび上がるように、その一枚が現れる。

 

私の心のアルバムの中にはそんな写真がいくつも飾られている。 それは単なる過去の記憶の断片ではなく、私という物語を形づくる大切な一部になっている。 私が自分の足跡を振り返る時、必ず浮かんでくる写真の数々、その一枚一枚が今の私を温かく包んでくれている。

 

過ぎ去った遠い過去が、もう過ぎ去ったこととして忘れ去られること無く、今も私の身体の中を血となって流れていることを感じさせてくれる。

 

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