もう走れない身体で、まだ走りたい心で ― 今だから見える景色

上り坂を、リュックサックを背負った若者が軽やかに駆け上がっていった。 「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ」と気持ちよさそうに、まるで箱根駅伝の往路を走る選手のように、一定のリズムで身体を前へと運んでいく。 私を追い越してだんだん小さくなって行くその背中を見ていると、いいも知れぬ苦しさのようなものを胸の奥に感じた。 「自分も本当に、かつてはあんなふうに走れていたのだろうか。」

 

今の私の身体では想像もつかない軽さと速さ。 あの頃の私は、坂道を見てもためらわず、好きなように駆け上がっていた。 疲れは翌日に持ち越さず、むしろ身体は鍛えられ益々元気な未来を信じて疑わなかった。 あの身体があれば、できないことは何もなかった。 そう思うたびに、胸の奥がじわりと痛む。 あの頃の私は、若さという資源をどれほど理解していただろう。

 

身体にガタが来ていると感じるようになったのは、いつからだったか。 朝起きてベッドから立ち上がって寝ぼけまなこで歩き出すとふらつく。 階段は手摺をしっかりと掴みながら神経を集中して段を踏んで下に降りて行く。 そんな小さな違和感が積み重なり、いつの間にか「昔の自分が信じられない」という感覚に変わっていた。 若い頃の元気な身体の感覚は日々遠くなり、昔の自分の姿を思い浮かべようとしても、「出来たはずだよね」と自分に言い聞かせないとイメージすら湧いて来ない。

 

若い頃の私は、結構仕事の手を抜いた時もあったし、集中度や真剣度にはむらがあった。 今思い返すと、もったいなく、情けなく、恥ずかしい。 だがその時の私は、それで失う貴重な時間はないと思っていた。 体力はいくらでもあり、未来と言う時間は無限にあるように感じていた。 まだ人生の重さを知らない気ままな若者だった。

 

今の私は違う。 身体の衰えを通して「時間の終わり」と言う、立ちはだかる壁を感じている。 朝ベッドから立ち上がった時のふらつきや、身体のあちらこちらの小さな痛みや、ふとした疲れが静かに語りかけてくる。 「加齢です。もう若くはない。」と。 しかし同時に「もう終わっていいのか?」とも問いかけてくる。

 

老いとは、ただ衰えることではなく、自分の歩幅を知り限界を受け入れながら、それでも前に進める可能性を探す自分がいることだと、つくづく思うようになった。

 

そして、老いを意識するようになって初めて、私は「時間」というものの重さを肌で感じるようになった。 若い頃の時間は、さらさらとただ流れて来て通り過ぎて行く川の水のようだった。 だが今は、時間には手のひらに乗せた石のように、確かな重みを感じている。 地平線から上る朝陽から伝わってくるパワー、夕暮れに感じる安らぎの気持ち、季節の移り変わりに一年と言う時の経過を感じて焦る気持ち、どれもが、今まで感じた事のなかった気持ちだ。

 

身体が衰えると、世界は逆に鮮やかに眩しく見える。 若い時には特別の感動もなくやり過ごしていた物が目に映えて心を捉える。

 

若い頃の私は、勢いで突っ走り、失敗しても反省もせず前に進んでいった。 あの無鉄砲さがあったからこそ、今の私がある事は間違いない事実だ。

 

坂道を駆け上がって行ったあの若者の背中は、もう私のものではない。 だが、あの背中を見て胸が痛むということは、私にはまだ前を向きたいと言う未練があるに違いない。

 

身体は減速を求めている。 しかし心は、まだ走りたがっている。 その身体と心のねじれは、今の私が生きている証だ。 そして私は自分の中に、終わりを意識しながら、なお生きようとする意志が潜んでいる事を感じている。

 

走れなくなった今だからこそ見える景色と言う物がある。 走れた頃の自分には決して見えなかった景色だ。 それで新たに見える景色があるのなら、走れない事もまんざらではない。 その世界で何かをして何かを残そうとしている自分がいる。

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