「と思っていてぇ〜」という時代

最近、街中やテレビで耳にする言葉遣いの中に、どうにも気になる表現がある。「〜と思っていてぇ〜」という、語尾を伸ばしながら自分の意見を“途中経過”のように提示する話し方だ。 本来なら「○○と思っている。そして△△だ」と二つの文に分けて述べるところを、「○○と思っていてぇ〜、△△」と続けてしまう。 あたかも自分の意見を言い切る前に、どこかに逃げ道を残しているような、そんな印象を受ける。

 

私は昔から外国語が好きで、言語そのものに興味がある。 だからこそ、巷で使われる言葉の変化には敏感だ。 言葉は生き物であり、時代とともに姿を変える。 私が学生だった頃と今とでは、語彙も言い回しも随分違う。 変化そのものは自然なことだと理解しているつもりだが、それでも「と思っていてぇ〜」のような表現を耳にすると、どうにも胸の奥がざわつく。

 

なぜだろうと考えてみると、そこには「自分の感情を傍観者的に扱う」ような距離感があるからだと気づく。 自分の気持ちであるはずなのに、言った瞬間に否定されるのを恐れているかのように、どこか曖昧に、柔らかく、責任を薄めるように表現している。 半年ほど前、仕事の関係で会った三、四十代の会社員がこの話し方をしているのを聞いて、初めてはっきりと違和感を覚えた。 それ以来、テレビのフリートーク番組でも、若い男性も女性も同じように話しているのを頻繁に耳にする。

 

どうやらこれは、単なる個人の癖ではなく、時代の「流行り」なのだと理解した。 だが、昭和の男としては、特に男性がこのように語尾を曖昧にして話す姿に、どこか自信のなさを感じてしまい、つい「情けない」と思ってしまう。もちろん、本人たちはそんなつもりはないのだろう。 感じてしまう私が、時代の変化に追いついていないだけなのかもしれない。

 

しかし、言葉というものは本来、責任を持ってはっきりと述べるべきものだと私は思っている。 曖昧な言い回しは、責任回避のように聞こえてしまう。 これは単なる世代の価値観の違いではなく、言葉に対する姿勢そのものの変化なのだろう。 背景には、社会全体が「断定」することに慎重になっている空気がある。 人間関係でも、会社でも、強い言い切りは角が立つと敬遠され、柔らかい物言いが好まれる傾向が強まっているようだ。

 

その変化を象徴しているのが、SNS上の発言だ。 SNSにはさまざまな種類があり、一概に語ることはできないが、情報の発信者がどこの誰なのかも分からないまま、言葉が次々と転送され、拡散されていく。 責任の所在が曖昧なまま、未完成な情報が世の中を駆け巡る。 こうした状況を見ていると、人々は「責任のない言葉」に慣れすぎてしまったのではないかと感じる。

 

さらに、SNSの世界では、断定的な表現をすればたちまち反論や批判の嵐にさらされる。 炎上という名の集団攻撃が待っている。 だからこそ、人々は断定を避け、曖昧な表現を選ぶようになった。 これは単なる言葉遣いの変化ではなく、自己防衛のための処世術なのだろう。 SNSという巨大な広場で生き抜くために、言葉の角を落とし、衝突を避ける。 そうした文化が、日常の会話にも染み出してきているのだ。

 

つまり、「と思っていてぇ〜」という表現は、現代の人々の心の持ち方を映し出した文化なのだ。 昭和の価値観で「はっきり言え」と言うのは簡単だが、今の時代には今の時代の生き方がある。 曖昧さは弱さではなく、むしろ「強く生きるための知恵」なのかもしれない。

 

そう考えると、昭和のじじいがとやかく言うことではないようだ。 言葉は時代とともに変わる。 そこには、その時代を生きる人々の心が映っている。 私が違和感を覚えるのは、私が生きてきた時代の価値観が体に染みついているからに違いない。

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