技術の世界を生きた者が、言葉の小径を歩き出す

毎日noteでのエッセイ執筆に熱中して来たおかげで、TVを観ていても出演者の言葉の慣用的誤用、文法上の間違いが凄く気になる様になってしまった。 毎朝ゴミ拾いをしていると、ほかの用事で道路を歩いている時でも、車に乗って走っている時でも、無意識に目がゴミを追いかけて小さなゴミでも見つけては気になって仕方ないのと良く似ている。 「感度」が鍛えられてしまうのだ。 悪く言うと「過敏症」だ。

 

文章を書きながら、少しでも自信がないと慣用句や漢字使いを都度確認しているので、今まで深く考えないで適当に使って来た日本語を改めて勉強する事になった。 これはとても良い事だ。 これにはネット検索やAIが強力にサポートしてくれる。 学生時代は重たく厚い「広辞苑」をめくって調べるしかなかった。 情報は限られていて調べても判明しない事も多かった。

 

noteのおかげと言えば、色々な分野に興味や知見を持った人の記事を多岐に渡って簡単に読む事ができる環境は本当に有難い。 私は小説を読まないし、今までこう言った書き物(読み物)の世界に触れる事は無かったので、大変勉強になっている。 私には「読む事が出来る」と言うよりは、「読む機会が出来る」と言った方が正しい。

 

私はこんな私のエッセイにスキをして下さった方や、フォローして下さった方のページは必ず訪れて、書かれている記事を丁寧に読ませて頂いている。 そこには多分そう言う機会がなかったら、あえて自分から探そうとしない内容の記事を書かれている場合も多い。 私は私に共鳴して下さった方には、どこかに何らかの心の接点があるのではないかと思い、真剣に記事を拝見させて頂いている。

 

その結果、世の中には実に多くの事を考えている方が執筆された、多様な書き物が存在している事を知る事になった。 それは単に読み物として幅広く触れられると言う事に留まらず、身の周りにこんなにたくさん色々な事を真剣に考えて生きている人がいるのだと、世の人の多様な生き様を知る事になった。

 

今までの人生では科学雑誌ばかり読み漁って、自然科学と言う客観的領域ばかりに関心を抱き、文学作品やエッセイなどには全く振り向きもしなかった私が、最近は180度変わってしまった。 もう科学雑誌はどうでも良くなってしまった。

 

まさに私が人生のスパンの中で、新技術で未来を切り開く世界から、行く末を案じて哲学的に人生や人間その物を振り返る歳になったタイミングで、ジャスト・ミートで出逢ったのがnoteであった。

 

更に期待させる物もある。 スキやフォローを通してでしかなくても、長い間には親しい友人が生まれる事があるのではないかと思う事がある。 特にありがたくコメントを頂いた方は、一歩近づいた知り合いになった気がする。 そんな人とのつながりが更に発展する可能性のあるプラットフォームだと言う点も素晴らしい。

 

私はOkapiと言うペンネームで参加している。 これは実際にかつて私の事を「オカピ!」と呼んでくれた親しい友人がいた事があって、深く考えずに選んだのだが、参加してから調べて見たら、このnote上には数え切れないほどの「Okapi」が存在しているのに驚いた。 こんなはずではなかった。 いつも私のエッセイを読んでくださっている方の中には、すぐに覚えて忘れられないようなナイスな名前を付けている方が多い。 これは、うかつな失策だった。

 

今は更に多彩な作品多才な方々とたくさんお逢いする事ができるように、私自身が良い結果を残せる執筆を続けて行こうと、自分を叱咤激励している。

 

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