今年の印刷した年賀状に、手書き文字でひとことメッセージを書くのにえらい苦労をした。 まず第一にとにかく字が汚い。 大きさも向きも揃わないし見るに堪えないのだ。 おまけに漢字が書けないのには参った。 仕方ないのでパソコンのWordで漢字を表示させて、かなり大きなフォントに拡大して、良く見ながら書く事になった。 それも一つや二つではなかった。 何も考えないで筆を進めると必ずインチキ漢字を書いてしまう。 もちろん漢字を読む能力は落ちていないので、書いた端から誤字に気づく事になるのだ。
思えば早くからパソコン人間だった私は、30歳の頃から40年以上も手書きの文字はほとんど書いていないのだ。 書かなければ漢字は必ず忘れる。 これは自分でも本当に情けなくなる。
例えば「身体に気を付けて」と書こうとして最初の「身体」の「自」の右の縦線を下に伸ばすところを、左側の縦線を下に伸ばして書いて「あっ!」と気が付く有様だった。 字を書く時は、目でペン先を追いながら「描いて」いるのではなく、覚えた手が勝手に動いて「描いて」いると言う事だ。 何十年も動かしてなければ、手が正確に覚えている方が奇跡だ。 このままでは小学生の孫にすぐに追いつき抜かれてしまいそうだ。
漢字が書けなくなったのは記憶力のせいではあるが、私の場合は、これに加えて身体的問題が加わっているので、ちょっとやっかいだ。 右手が若干不自由なのだ。 60年近く前の体育の授業でトランポリンで跳びながら空中回転をやった時に、半回転回り過ぎて頭から落ちてしまい、それ以来痛めてしまった首の骨が60年かけて徐々に右手の動きを不自由にして来ているのだ。
まぁ、いわゆる健康に影響を及ぼすものではないのだが、最近は力が入らず不自由になって来た。 パソコンのキー入力も以前は両手10本で華麗にスピード入力していたが、今では右手は人差し指と中指しか使えなくなっている。 だからこの指で綺麗な字を書こうとすると結構気合を入れる事になる。
Windowsが急速に普及を始めたのは1990年のWindows3.1からだが、私は更にそれ以前のMS-DOSが誕生した1980年代初頭からパソコンに夢中になり、ペンを握る事を放棄した。 それまでは仕事で一日中貸出稟議書を鉛筆で書いていた。 その時書いた書類のコピーの一部が手元に残っているが、ピシッと揃った綺麗な字で書いてあり、今自分が見ると、いったい何処の誰が書いたものかと惚れ惚れしてしまうほどだ。
小学生の孫を見ていると、今の子は授業でタブレットPCを使っていて、スワイプ(指を画面に触れたまま横・縦にすべらせる操作)、フリック(指を素早くはじく操作)、ドラッグ(指で押したまま物を動かす操作)、ピンチ(2本指で広げる/縮める)で自由自在に操作している。 良く見たら弟の幼稚園生も見様見真似でちゃんと操作をしている。
新しいメディアなので、私たちが昔はしなかった操作に熟達している事自体は良いのだが、文字入力もフリック入力を使いこなしているのを見ると、小さな時からこんな事に慣れてしまって大丈夫なのだろうかと心配になってしまう。
少なくとも、私がキーボード入力に頼って生きて来たのは問題が多かったと思う。 アルファベット文字を使っている西洋では全く問題にならないのだが、漢字を使っている日本は特別だと言う事を忘れてはならない。 複雑な漢字文化の日本の人々は、昔から小さい時から訓練を重ねて手に漢字を書く動きを叩き込んで来た。 電子技術の進歩が我々の大切な文化を破壊しないように、日本人は特別に努力をする必要があると思う。 私はその大切さを身を以って体験した。
同じ漢字圏の中国は簡体文字に切り替えて漢字を簡略化したし、お隣韓国はハングル文字(日本語のかな文字に相当)を考案して漢字を捨てた。 唯一台湾と日本だけが昔ながらの漢字を使っている。