毎朝の散歩で以前からちょくちょくすれ違う散歩中の高齢のご夫婦がいた。 ご主人がいつも隣の奥さんの手を握って仲良く歩いている姿がとても羨ましく見えた。 いつしかお互いに声を掛け合う様になり、ちょっとした立ち話もする様になった。 私はいつも真っ赤な帽子を被っているし、そのご主人は背が高くて手を繋いで歩いているご夫婦は他にはいないので、お互いに遠くから目立って気が付くと、手を挙げながら大きな声で名前を呼び合う仲になっていた。
お二人があまりに仲良しに見えるので、お会いした時に「手をつないで、仲良しですね。」と言うと「なぁに、杖代わりですよ。」と答える明るいご主人だ。 お歳を尋ねると私の十歳年上の大先輩だと分かった。 いつお会いしてもお話しするのはご主人だけで、奥さんは隣でニコニコと幸せそうに笑っている穏やかな方に見受けられた。
そのご主人は、ちょっと耳が遠いようでいつも補聴器を付けておられる。 それでも声は聴き取りにくいようで、傍で話す時もゆっくりと意識して大きい声で話す必要があった。
先日散歩中に、ひっきりなしに車が行き交うやや広い道路の向こう側の歩道から、私の名を呼ぶ一人で散歩している男性がいた。 良く見たらいつもの大先輩だった。 「あれ?奥さんは~?」と大きな声で尋ねると、向こうからも大きな声で「施設に入れました~」と言葉が帰って来た。 びっくりした。
いつも隣でにこやかに笑っていた優しそうな奥さんの顔が浮かんだ。 あのいつも笑うだけの表情の裏には老化の問題があったのだ。 ちょっと気軽に渡るには車通りの多い道路だったので、その日はそのまますれ違った。 そのご主人は何かまだ話し足りないような心残りの様子に見えたが、仕方なかった。
帰宅後その大先輩の事が頭から離れず、あのまま別れてしまった事を後悔した。 今度会ったら絶対に色々とお話を聞いて、励ましてあげようと妻と話し合った。 果たして翌朝散歩に出たら、ちょっと先にそのご主人が歩いている姿が見えた。 私たちは毎朝、8通り決めてある散歩コースを順繰りに変えて歩いているので、続けて同じ人に出逢う事はまずないはずなのだが、その朝は例外だったようだ。 私はまだ早朝だったので、近所をはばかりながら大きな声でそのご主人を呼び止めた。 ご主人は嬉しそうにして私達が近付くのを待っていた。
色々お話を伺う事が出来た。 開口一番、「大変な事になりましたね。おひとりでご不自由でしょう?」とお尋ねすると「なんの、なんの、五年前から同じですよ」との事だった。 お話によると、五年程前から奥さんの記憶障害が始まり、なんと買い物・炊事・洗濯・掃除の全てをご主人一人でやって来たとの事だった。 それだけの家事をすべて一人でこなし、毎朝奥さんの手を引いて散歩されていたのだ。 何と言う優しさだろう。
お二人の毎朝の散歩自体は、25年前から続けていたそうだ。 お聞きするとご主人は更にご不幸を抱えておられた。 片目が病気で見えないそうだ。 そして心臓にはペースメーカーを埋め込んでおられるそうだ。 耳には補聴器をつけておられるので、まさに満身創痍だ。 最近になってケアマネージャーから「ご主人、もう限界ですよ。」と言われ、施設に入れる事を強く勧められて今回の運びになったそうだ。
奥さんの入居された施設は隣の市だが交通の便が悪い。 ご主人は車の運転はしないし、訪れるにはバスと電車を乗り継いて一時間半もかかるそうだ。
独りになった今も、いままで奥さんと25年間毎朝歩き続けた道を歩いているのだ。 隣に引く手がなくなって、どれだけ寂しい事だろうか。 それでも想い出と共に同じ道を歩いている姿には胸を打たれた。
私の妻が同じような状態になったら、私には同じようにできるだろうか。 日頃から冗談ではあるが、「おまえがそうなったら、すぐに施設に入れる! 俺がそうなったら家でしっかり介護しろ!」と、永年ケアマネージャーとして介護の世界で働いて来た妻に言い放っている自分が、さすがに恥ずかしくなった。