無謀運転に生きる機会をくれた運命の真意

これは私が若かった頃、思い出すのも恥ずかしい無謀運転をした時のお話だ。 いずれも若気の至りが成した業で、恥を忍んでお話ししたい。

 

誰でも永年車に乗っていれば、一度くらい「冷やっと」した事はあるのではないかと思う。 私は車に乗り始めて55年間、常に休みなく車に乗り続けて来た。 それも長距離運転が随分多かった。 幸いに未だに無事故である。 ただし、その無事故は、警察に届け出ベースの話で、無届けの単独事故はあった。 まだ免許取り立ての学生時代の話である。

 

学生時代は良く仲間と車を数台連ねて山岳地帯を夜間ドライブした。 飛ばしたくて、飛ばしたくてしょうがない歳頃だったので、他に車がほとんど走っていない夜中の山道は絶好の「サーキット」だった。 自称「正統派暴走族」と名乗っていた。 人のいない所で暴走するが、街中を改造車で爆音を立てて暴走するような人に迷惑を掛けるような事はしないからだ。

 

ある晩、車3台で山梨~長野あたりの山岳地帯を走っていた。 私が運転した車は友人の家の車で、スカイラインの1500ccと言う「ド・セダン」とも言うべき、ふわふわにクッションが効いた「乗り心地の良い乗用車」だった。 間違ってもスポーツ走行などをしようとは思えないおとなしい車だ。

 

友達3人を乗せて舗装路のカーブの多い山道を登っていた時だ。 とにかく飛ばすことなど一切考慮されていない車だったので、コーナーでハンドルをきつめに切ると、車の上体がコーナーの外側に向かって大きくロール(傾く)する。 全員免許取り立ての素人ばかりだったので、歓声を上げてそのスリルを楽しんでいた。

 

急な上り坂で目の前に現れたコーナーはちょっときつめの右カーブだった。 快速で突っ込んで行った車は大きくロールして限界に達するとリアのタイヤが外側に滑った。 路面が凍結気味だった。 そんな経験は初めてだったので、右や左にハンドルを修正したが車はかえって滑ってコーナーの外側、左側に飛び出して崖下に落っこちた。

ところが運が良い事に、その崖はほんの2~3m下が柔らかい奥行き56mの土の棚になっていて、車はそこに頭からつっこむ形で止まってくれたのだ。 もうほんのちょっと勢いがあったら、その棚の先端から遥か崖下に落下する所だった。 前後にあったどのコーナーもその下には棚も何もない急な崖だった。 全員まったく無傷だった。 事故現場が他のコーナーだったら私達4人は恐らく学生で人生を終えていただろう。

 

時刻は真夜中0時過ぎ、そこは山奥深く、人里は遠く離れている。 車を引き揚げさえ出来れば、かなりへこんではいたが動きそうだったが、この状況に全員が途方にくれていた。 その時後ろからトラックのエンジン音がした。 こんな真夜中に通る車があるのだと驚いたが、もっと驚いたのはクレーンを装着した4トン車だったのだ。

 

その車の運転手は現場で止まって状況を見て、「吊りあげてやるよ」と言ってクレーンを伸ばし始めたのだ。 なんと言う幸運だろう。 車は無事道路まで吊り上げられた。 グループの中に一人だけ皆より年長者がいたのだが、「少ないですけどありがとうございました。」と言って5千円札を渡して、そのクレーン車は立ち去った。 時計を見たら夜中の2時を過ぎていた。 私はその傷ついた車を震える手でそのまま運転して、みんなと一緒に都内の家々に戻った。

 

後輪を滑らせた時にカウンター・ステアリング(逆ハンドル)を切ると言うスポーツ走行テクニックをまだ習得していなかった為に起きた事故だった。

 

もうひとつの「冷やっと」は、半年後に妻になる彼女と一緒に死にかけたぞっとする話だ。 大恥を忍んでお話しするのだが、私がまだ学生気分が抜けないバカ者だった頃のお話だ。 就職をしてまだ何年も経っていなかった時で、まだハンドルを握ると突っ張り運転をする情けない性癖は消えてなかった、

 

勤務先で東京から大阪に転勤する事になって、私はその冬結婚する事になっていた彼女を助手席に乗せて、日産キャラバンと言う今でも救急車に良く使われるバンを、夜の東名高速を大阪に向かって走らせていた。 たまに先行車に会うが、追い越したらまたしばらくは先行車に会わない、と言う夜の暗闇を西に向かって疾走していた。 まだまだ昔の飛ばし屋気分が抜けない私は、常に追い越し車線を走っていたのだが、やがて目の前に追い越し車線をゆっくり走っている乗用車が現れた。

 

突っ張り屋の私はその車に対して「ゆっくり走りたいなら走行車線を走れ」と言わんばかりに後ろにピッタリ付けて煽った。 それに何も反応しないその車に業を煮やし、私は左側の走行車線から追い越して、その車の前の方で右に車線変更して割り込んで、ブレーキを踏んでその車より遅い速度に落とした。 単なる嫌がらせだ。 今から思えばどうしようもない無法な危険運転だ。

 

今なら、煽り運転と危険運転で即取り締まりとなるし、世間の目も厳しくドライバーのモラルも大変高くなっているが、55年前の1970年代の日本では特段珍しくない光景だった。

 

これ以上減速したら後ろから追突されると思い、走行車線に戻ろうと左にハンドルを切ったのだが、その時に左側のサイドミラーに写った物をあれから45年経った今も忘れない。 思い出すたびに心臓が高鳴り恐怖が身に走る。 左側のサイドミラーには大型トラックのヘッドライトが凄い勢いで迫る姿がはっきりと写っていたのだ。

 

その大型トラックは、追い越し車線に「遅い乗用車とその前で減速しているワゴン車」がいたので、仕方なく走行車線で追い抜こうとしていたのは明らかだった。 ミラー越しでも私には迫る速度が感じられた。 凄い速度差だった。 ところがなんと私は追い越し車線に戻って避けようとしないで、そのまま走行車線に入った。 その瞬間の私の頭の中は数十桁の演算を瞬時に計算するコンピューターの様だった。 ほんの瞬間であったと思うが、様々な光景が目に浮かんだ。 後ろから思いきり追突されたら痛いだろうと思った。 もう時間がないと思った。

 

次の瞬間、頭ではなく縮み上がった身体が反応した。 思いっきり右にハンドルを切って追い越し車線に戻った。 正真正銘の危機一髪であった。 後ろから来た大型トラックは、ラッパを鳴らしながら追い越し車線に戻った私のすぐ前にすごい勢いで割り込んで、怒りをあらわにした。 私は急ブレーキを踏んでタイヤはフル・ロックして滑りながら、そのトラックのコンテナの側面と中央分離帯の間に挟まれて潰されるかと思った。

もう0.0何秒か戻るタイミングが遅かったら、私と未来の妻は押しつぶされた蛙の様になってこの世を去っていたに違いない。 余りにも悲惨な結末になるところだった。

  

この二つの「冷やっと」はどちらも自業自得の出来事であった。 しかも前者は同乗の3人の仲の良かった友人達、後者は数か月後に結婚する予定の大切な人を道づれに巻き込むと言う、悲劇と言うだけでなく、危険運転致死と言う取り返しのつかない犯罪を犯すところだった。

 

さすがにその後、歳とともに無謀運転からは卒業した。 そしてそれ以降の人生で、国内を数十万キロ、海外もスペイン、ミャンマー、フィジー、パラオと数万キロ走って来たが、「冷やっと」には二度と遭っていない。 あの生命を危険にさらした2つの出来事が、一生分の危険との遭遇を先取りして消化してくれた様に感じる事がある。

 

あんな危険をくぐり抜けて生きて来たと言う事は、とても単なる偶然や幸運とは思えない。 絶対、神様のような何か超越した力に守られているとしか思えない。

 

実は、車の事故寸前の話に限らず、私の人生は「危機一髪」とか「ギリギリ間に合った」と言う話が本当に多い。 一歩間違ったら奈落の底に落ちていたとか、取り返しのつかない事になっていたと言う話が余りにも多くて、それだけでひとつのエッセイがたっぷり書けるほどだ。

 

世の中には本当に人の為に尽くして、人々に愛されて、立派な人生を歩んで来た神様の様な方が若くして亡くなる話を良く聞く。 私が何を成したからこんな危機一発をかいくぐって生きる事が許されて来たのか、いまだにその答えはわからない。

 

何か理由があるはずだ。 何も成した覚えはない。 私はいつもその理由をずっと考え続けている。

 

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