歌う符号

「モールス通信」をご存知の方は、戦争での通信業務の担当者、船舶などの通信業務の就業者、アマチュア無線家に限られると思うが、大変味のある世界だ。

 

モールス通信」は、自動車のクラクションを数回断続的に鳴らすと出来るような符号「モールス符号」を使って文字のやり取りをする通信方法で「電信通信」とも呼ばれる。 良く「トン・ツー」とその音を表現しているが、「トン」と言う短い音、「ツー」と言う長い音の組み合わせで対応した文字が決められている。

 

自動車のクラクションに例えると、前を走るのろい車にイライラしたドライバーが「プ!」とクラクションを鳴らす場面が想像できる。 これは英文字(英文)で言えば「E」、日本語文字(和文)で言えば「ヘ」である。

 

状態がちっとも改善しないのに「プ・プ~~」とちょっと怒りを込めてクラクションを鳴らす。 これは「A」、または「イ」である。 

 

更に怒りが増すと興奮して「プ・プ・プ」と鳴らせば、「S」または「ラ」である。

 

最後に怒り心頭となって鳴らしっぱなしになって「プ~~~~~」となれば「T」または「ム」となる。

 

ABCの欧文が「=」等の記号を含め30文字程度、「アイウ」の和文が旧カナ文字等を含め50数文字のモールス符号が決められている。 文字毎のモールス符号をすべて丸暗記しなくちゃいけないなんて、何故そんな面倒くさい事までするのかと言えば、ちゃんと理由がある。

 

一つは「トン・ツー」と表記されようと「プ・プー」と表記されようと、要は短点か長点かさえ判別できれば良いので、通信状態の悪い雑音だらけの弱い信号でも通信が可能だと言う大きなメリットがある。 音声通信だったら雑音だらけで何を言っているのかさっぱり聴き取れない状況でも、信号でわずかに変化する背景の雑音だけでも100%通信が出来るのだ。

 

洋上を航海する船舶は、今では地球上何処からでも通信衛星を使って通話ができるようになったが、以前は通信状態が大変不安定な短波帯の電波による無線通信しか手段がなかったので、カスカスの弱い信号でも確実に通信できるモールス符号を使った電信通信が必須だった。

 

もう一つは、電波を出したり引っ込めたりするだけで、その長さで短点・長点を伝えらえるので、大変原始的な簡単で安価な機械設備で通信ができると言う点だ。 この1つ目と2つ目両方のメリットを生かしたのが戦時中の軍隊での通信だった。(当然和文の符号で通信していた)

 

さて、このモールス符号であるが、今では使われているのはアマチュア無線でだけかもしれない。 それも今ではほとんどが欧文のみで、和文は日本でも一部のマニアしが使っていない。 私は学生時代に習得したので、人生の大半を一緒に過ごしている。 だから私にとってこれはもうひとつの日本語、あるいは故郷の方言みたいな感じだ。 習いたての頃は、四六時中モールス符号が頭から離れなくて、街を歩いていてもとても賑やかで楽しかった。

 

例えば店の看板だ。 「TOYOTA」書いてある看板を見ると、普通は頭の中で「トヨタ」と読んでいると思うのだが、私の頭の中では「ツー・ツーツーツー・ツートツーツー・ツーツーツー・ツー・トツー」と音が鳴るのである。 それなのに頭は「トヨタ」と理解しているのだ。 この感覚は、実に楽しくて賑やかで華やかに感じるものだ。 目を他に移すとアルファベットの表記のものは沢山あるので、次から次にメロディが鳴り続けるのだ。 

 

目から入る物だけではない。 車のクラクションや何かのブザーや、風の音や、何処かの工事の音など、すべての音には短い音と長い音があるので、今度は頭の中でアルファベット文字が浮かんで次から次に流れるのである。 目で見た文字は楽器の様に耳の中に響き、耳で聞いた音は目の中に文字として浮かぶ。 あのころは何処に行っても賑やかで楽しくてたまらなかった。

 

ところで、モールス符号による通信は一文字一文字のまどろっこしい通信になるので、欧文でも和文でも良く略語が使われる。 例えば、「Thanks to you」は「TNX TU」、「See you again」は「CU AGN」と言った具合だ。

 

聞く所によると、戦時中の特攻隊の戦闘機による体当たりの時の通信は悲惨だった。 和文で「セタ」や「クタ」、「ホタ」と言う略語があった。

「セタ セタ セタ」が「我、戦艦に突入す」

「クタ クタ クタ」が「我、駆逐艦に突入す」

「ホタ ホタ ホタ」が「我、空母に突入す」

どれも文字を打った後に続けて信号を出しっぱなし(すなわちツ~~~)にして敵艦に突入、その信号が途絶えた瞬間に体当たりしたと判別したそうだ。

 

こう言った特徴を持ったモールス符号であるが、「トン・ツー」の応酬で冷たい文章のやり取りしかできないと思ったら大間違いだ。 アマチュア無線でモールス通信を熱心に行っている方の中には、明らかに他の人と違う符号の打ち方をしている人がいる。 歌っているのだ。 単調な規則正しい符号の送出ではなく、まるで歌や楽器の演奏みたいに符号の流れのリズムに抑揚を付けて歌ってるようだ。 符号の長さの基本は、短点:長点は1:3と決まっているのだが、文章の流れや位置によって余分に長くしたり短くしたり、また間隔を空けたり縮めたりすると、まるで歌っているようになって、冷たかった符号のやり取りが歌のやり取りに変わる。

 

また、特別上手に歌えなくても、優しさや丁寧な感情が伝わって来る符号を打っている人はたくさんいる。 言葉で話しているのと変わらないのだ。 お互いに、送る方も受ける方も、まるでキャッチボールをするかのように心を開いて相手を向いて受け入れるから、やり取りが終わった後は、わずかな符号だけでお互いの心に温もりが残っている。

 

モールス符号による通信は、使用する機械も、送る信号も、送る文章も、最も簡単・単純なものになっている。 なのに、それが場合によっては口で伝える会話以上に豊かな感情を伝える事が出来ている事に、人間の表現力と感受性の奥深さを感じている。

 

コメントする